グナワ音楽はジャジューカと比べて、よりシンプルな楽器編成である。ライタやフルートなどの管楽器は使用されず、その代わりにゲンブリと呼ばれる2〜3弦楽器が中心的な役割を果たしている。多数の管楽器がユニゾンで甲高い音色を奏でるジャジューカとは逆に、グナワではバンドのリーダーの弾く1台のゲンブリの重厚な音色がアンサンブルの要となって、この楽器によるミニマルなフレーズに手拍子や打楽器、声などが加わる構成となっている。
このゲンブリという楽器は機能的にはベースに近いのだが、その楽器の音色は実に不思議な魅力を持っている。どちらかというと倍音の少ない暗い音色で腰の方にズシンと響いてくる感じなのだが、その暗い音色にも関わらず異様に存在感のある響きは、聴くものを異次元の世界へと誘う。また、弦のはじき方によってアタックに打楽器的な効果を付けることができ、名手によって弾かれるとベースラインとリズムが一つの楽器で表現されうる奥の深い楽器でもある。
このゲンブリに加えて、もう一つ欠かせない楽器がある。カルカベと呼ばれる鉄製のカスタネットである。この楽器はゲンブリを担当するリーダー以外の全てのメンバーによって演奏されるがカッカカカッなどと硬質な音色で、ゲンブリが作り出した魔術的な雰囲気をさらに盛り上げ、異様な高揚感をもたらす。
ゲンブリのベースラインとカルカベのリズム、鋭い人ならもうお気付きだと思うが、これはテクノの多くがベースシンセとリズムマシンの組み合わせを基礎としている構造と非常に近い関係にある。どちらの音楽も聴き手の日常的な心理感覚を奪い去りトランス状態へと導いていく特徴があり、テクノサイドから近年モロッコ音楽の再評価が高まっているのもこのあたりが注目されたからであろう。
さて、このグナワ音楽の神髄に触れるには、マレーム・マームウド・ギニア Maleem Mahmoud Guinia のアルバム The Black Mlucks (Blues Interactions) を聴くのが最も近道である。ゲンブリとカルカベによるトリップ・サウンドを1時間以上にわたってたっぷりと堪能することができる。
ちなみにギニアはビル・ラズウェルのプロデュースの下、ファラオ・サンダーズとの共演アルバム THE TRANCE OF SEVEN COLORS (AXIOM) も録音している。これは、ギニアのアンサンブルにファラオ・サンダーズのテナー・サックスが加わってインプロヴィゼーションを繰り広げる内容で、トランス度から見ると The Black Mlucks よりはかなり落ちるが、ファラオのスピリチュアルなプレイが非常に印象的である。ジャズと、その遠いルーツであるアフリカ音楽の再会という観点からも非常に興味深く、ファラオのプレイからも自分の祖先に出会ったような喜びのようなものがひしひしと感じられる。
ちなみにビル・ラズウェルはモロッコ関連のアルバムをこの他にも私が知る限り2枚制作している。
グナワ物では GNAWA MUSIC OF MARAKESH / NIGHT SPIRIT MASTERS (AXIOM) ジャジューカでは THE MASTER MUSICIANS OF JAJOUKA FEATURING BACHIR ATTAR / APOCALYPSE ACROSS THE SKY (AXIOM) といったアルバムをそれぞれ制作している。それぞれの音楽の多様な面を見せようとする意志が強すぎてか、ややこじんまりと、きれいにまとまってしまった印象もなきにしもあらずであるが、ビル・ラズウェルならではの非常にパンチの効いた録音、マスタリングは見事で、モロッコ音楽の持つ圧倒的なパワーが余すところなく収められている。
このように、多くの欧米の先鋭的なアーティストを魅了しているモロッコ音楽であるが、当のモロッコからも伝統的な音楽を演奏するのに留まらない先進的なアーティストも活躍している。
グナワの音楽家ハッサン・ハクムーン Hassan Hakmoun は、特にフリー・ジャズ系のミュージシャンとの共演が多く、今年になって発売された最新のアルバム Gift of Gnawa (Blue Flame) では、彼の演奏するゲンブリとヴォーカルにドン・チェリーのトランペットやフルート、アダム・ルドルフによる非モロッコ系の打楽器などが重なり、さらにディレイなどのエフェクト処理が施されることで無国籍なサウンドを生み出しているが、モロッコ音楽特有のトリップ感覚は異物が加わることによってさらに増大している。
このアルバムの価値を著しく高めているのはドン・チェリーのフリー・ジャズという枠組みからも、さらにフリーである神がかったプレイであり、彼のトランペットやフルートとハッサンのゲンブリの絡まり合いも絶妙である。
暑い夏はビールを飲みながらモロッコ音楽でトリップ、というのは如何だろうか?
2000年6月アーカイブ
モロッコはアフリカの西北、スペインの真下に位置する国であるが、この国の音楽を聴くことによって、音楽に魔術的要素が存在していることを改めて感じずにはいられない。
私がはじめてモロッコ音楽を聴いたのはオーネット・コールマン70年代の名作「DANCING IN YOUR HEAD」においてである。このアルバムに収録されたMidnight Sunriseという曲でオーネットがモロッコに赴きジャジューカという村の音楽家たちと共演しているのだが、オーネットはジャジューカの音楽家たちについて次のように語っている。
これは、人類の音楽だ。これは、生命の状態を伝えているのであって、女に逃げられたとか、戻って来てくれとか、おまえなしに過ごす夜は耐えられないといったようなこととは関係がない。全く違う。はるかに深い音楽なのだ。
<裸のランチ/オリジナル・サウンド・トラック盤(ビクター)の解説より引用>
ジャジューカの音楽の構造は極めてシンプルである。使われている楽器はライタ(ガイタ)というリード楽器、フルート、タイコ系の打楽器、手拍子、声などである。多数のライタやフルートがユニゾンで呪文のように延々と繰り返すフレーズや打楽器の合奏が生み出す反復するリズムなどが音楽の特徴として挙げられるが、このような単純な構造の音楽がどんな複雑に構成された音楽よりも、より深く人間の心理状態に影響を及ぼすことは神秘としか言い様がない。同じことの繰り返しが退屈さを生み出すのではなく、覚醒を生み出す恐るべき効果はスティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラスらによって西洋音楽に取り入れられてミニマル・ミュージックと呼ばれるようになり、その原理を応用したテクノ・ミュージックなどの普及によって一般にもその心理的効果が知られることとなった。現在ではそのテクノサイドからその音楽のルーツともいえるモロッコ音楽の再評価という現象も起きている。
モロッコ音楽に魅せられたのはオーネットだけではない。ウィリアム・バロウズやローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズといった奇才アーティストもこの音楽に大きな衝撃を受けているし、そのウィリアム・バロウズの代表作「裸のランチ」がクローネンバーグによって映画化された時、そのサントラにオーネット・コールマンの音楽が採用され、先述したジャジューカのミュージシャンとの共演の録音が一部引用されたり、ブライアン・ジョーンズがモロッコに赴いて録音したジャジューカ音楽のアルバムがフィリップ・グラスの運営するレーベルからCD化されるなど、モロッコ音楽を通じた様々なアーティスト間の結びつきにも非常に興味深いものがある。
さあ、この音楽を聴け。
4000年前から伝わる
ロックン・ロール・バンドの音を・・・
からだ全体で聴け。
体中に染み込ませて、動かされてみろ。
すると君は
地球最古の音楽と1つになれるのだ。
(ウィリアム・バロウズ/ブライアン・ガイシン)
<ブライアン・ジョーンズ・プレゼンツ・
ザ・パイプス・オブ・パン・アット・ジャジューカ
(POINT MUSIC)の解説より引用>
ブライアン・ジョーンズによるモロッコ音楽を収録したアルバム「BRIAN JONES PRESENTS THE PIPES OF PAN AT JAJOUKA」はモロッコの音楽を欧米に紹介した最も初期のものであり、その録音は1968年とかなり古いのであるがこのアルバムの輝きはいまだ衰えることを知らない。それは、このアルバム全体を通してかなりどぎついフランジャーがかけられているので、ジャジューカの音楽を忠実かつ客観的に録音したものでは決してないが、逆に、このエフェクト操作がジャジューカの音楽の本質を鋭く突いているとも言えるからだ。
ジャジューカの音楽は「音楽」として純粋に楽しむものではなく儀式のための一つの道具であり、その音楽は儀式の中で一晩中演奏されその儀式に参加するものは皆、一種のトランス状態に陥ってしまう訳で、アルバムという収録時間の限られたフォーマットでこうした音楽の本質を表現するため、録音されたものにエフェクト処理を施すということは非常に効果的であると思うのだ。
確かにこのアルバムを聴いていると、フランジャーで強烈にねじ曲げられたライタの合奏によって旋回するフレーズは激しく脳髄に突き刺さり、それは脊髄に伝わって体の内側から激しく意識を揺さぶっているのがよく分かる。
この音楽は「聴く」音楽ではない。
「体験する」音楽である。
そもそも音楽とはそういうものではないのだろうか?
現代という時代に生きる私達に、この太古から伝わる圧倒的な音楽はそのことを思い出させてくれる。
音楽は魔法なのだ。
ところでブライアン・ジョーンズがジャジューカを訪れた当時7歳であった少年バシール・アッタールは現在、亡父の後を継いでジャジューカのミュージシャンのリーダーとなっているが、彼を中心として1995年に録音されたアルバム「The Master Musicians of Jajouka Featuring Bachir Attar / JAJOUKA BETWEEN THE MOUNTAINS (WOMAD SELECT)」も一聴に値する。
ここではブライアンのアルバムに見られたような強烈なエフェクトはないが、彼らの音楽の持つトリップ感覚がうまく録音に収められていて臨場感も抜群であり、スピーカーからモロッコの土地の香りが滲み出てくるようだ。
しかしモロッコの音楽はジャジューカだけではない。ギニアから連れて来られた奴隷の遠い子孫であるグナワ族の音楽も実に衝撃的なのであるが、この音楽についてはまた次回紹介しよう。
武満徹は我が日本が誇る世界的作曲家であるが、つい数日前この大作曲家による愛すべきソング集の楽譜が日本ショット社より出版された。
驚きなのはこの楽譜のアートワークを大竹伸朗が手掛けていることである。武満は生前より大竹の作品を高く評価していたので全く考えられない組み合わせという訳ではないのだが、こういった形でのコラボレーションが行われるとは私には全く予想ができなかった。
ショット社の楽譜というと黄色い紙のシンプルなデザインの表紙というイメージがあるが、この楽譜はそういったイメージから全くかけ離れた、大竹による、鉛筆で数字を書き込んだ大学ノートを細かくちぎってコラージュしたハードカバーの表紙であり、ショット社のこの楽譜に掛ける意気込みが窺える。
表紙を開くと、大竹の絵画作品と武満のソングの楽譜が一つずつ交互に収められているので、武満作品の楽譜としても、大竹の画集としても楽しめるようになっている。
さて、この武満の手による「ソング」についてであるが、これらの作品はけっして「歌曲」ではない。また彼は「歌曲」と分類される作品を私の知る限りにおいて全く作曲していない。
このソング集にふくまれるいくつかの作品は武満自身によって混声合唱のために編曲され、その楽譜が同じショット社から彼の生前に出版されているが、こちらのタイトルは「混声合唱のためのうた」となっている。一部でこの合唱用の編曲がオリジナルであるかのように誤解されているが、実際には様々な機会に映画やラジオ・ドラマなどのために作曲された。
このソング集の興味深い点として、それぞれのソングが作曲年代順に並んでいることが挙げられる。
以下にこの楽譜に収録されているソングを作曲順に示してみよう。
| およその 作曲年代 |
曲名 |
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(フランス語) |
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(スペイン語) |
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(ドイツ語) |
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これを見るとソングの作曲が彼の作曲人生の全期間に渡っていることが分かる。先程触れた混声合唱のための編曲のほとんどが1980年の前後に初演されていたり、1995年に彼のソングをポップス系のアレンジャーに編曲させて石川セリに歌わせたCDを発表したりということを考えると、武満がこれらのソングに非常に愛着を持っていたことが良く分かる。
これらのソングが決して「歌曲」ではないと述べた通り、これらのソングはどれもジャズのスタイルに日本の古い流行歌の情念をブレンドさせたような作風で、非常に親しみやすいにも関わらず「武満ポップス」と名前を付けたくなるような独特の雰囲気を持っている。
これらの作品が映画やラジオのために作曲され演奏されたという事情のため、武満自身によるオリジナルの伴奏譜が基本的に存在していない。(例外は「うたうだけ」と「燃える秋」で、この2作品には武満自身によるピアノ伴奏譜がある。ただし「うたうだけ」ではコードしか示されていない部分も多少ある)
従って、このソング集の各曲の楽譜にはヘニング・ブラウエル編曲によるピアノ伴奏譜と、ギター伴奏などで演奏するためのコードがオリジナルのメロディーに付け加えられた形で印刷され、演奏上の便宜をはかっている。ブラウエルのことについては私は全く知らないが、彼の編曲はこれらのソングが持つジャジーな雰囲気をうまく生かした編曲でなかなか好感が持てる。(もちろんこれは編曲の一例であり、ピアノ声部まで厳密に作曲された「歌曲」作品のように必ずこの譜面の通り演奏しなければならないことはないし、むしろこの譜面から離れてそれぞれの感性で演奏すべきであろう)
武満のジャズ好きというのはかなり有名で、彼自身、「生まれ変わったらジャズ・ミュージシャンになりたい」「作曲をデューク・エリントンに習いたかった」などと発言しているようであるが、これらのソングにはそうした彼のジャズに対する偏愛がひしひしと感じられ、飾らない武満の素顔が垣間見えてくるようである。
これらの愛すべき小品が生前に出版されなかったのは、それが「楽譜」という目に見えるものとなることによって、「歌曲」として「格調高く」歌われるのを嫌い、単なる「うた」として世の中の人々に口ずさんで欲しいという武満の意志があったのではないかと、私は推測する。既に出版されている合唱用の編曲もジャズのスウィング感とハーモニーを持った粋なアレンジであり、プロ、アマチュアを問わず様々な合唱団で歌われているが、実際の演奏でこうした要素をうまく表現できているものは個人的にはあまり多くないと思う。
私は武満のソングのいくつかを、今回の楽譜が出版される前から自分で編曲して演奏しているが、これらのソングの普段着感覚を損なわないことに重点を置いて来た。この方向性が間違っていないことが、今回のソング集の出版でさらに確信できたと思う。武満自身による2曲のピアノ伴奏の書法は、ジャズのスタンダードとなっているガーシュインなどのソングのそれと同じであり、ブラウエルの編曲もその方向性を踏襲していて、それが武満のソング集として正式に出版されたからだ。
そして、そこに大竹のアヴァンギャルドでありながらもポップで突き抜けた感覚の絵画作品が挿入されることによってこれらのソングのポップ性も際立ってくるのだが、それに加えて大竹、武満の両者の作品に見られる、楽しい、悲しいなどといった単純な言葉では全く表現できない、心の最も内層のねじ曲がった叫びのようなものも同時に立ち表れてくるようで、このソング集は単なる楽譜というフォーマットを超えた新しい種類の印刷物であると言えよう。
この企画は生前の武満のアイデアなのかどうか分からないが、いずれにせよ天国の武満はこのソング集の出版を喜んでいることだろうと確信している。
マイルスは非常に膨大な数のアルバムを発表しているが、駄盤というものがほとんど存在しない。チャーリー・パーカーの下を巣立ち、自分のグループで活動するようになってからのサイドマンとしての録音は非常に少ないが、ここで最晩年にサイドマンとして参加した素晴らしいアルバムを紹介したい。
そのアルバムとは1990年(つまりマイルスの死の1年前)に録音されたシャーリ−・ホーン Shirley Horn 名義の「YOU WON'T FORGET ME」である。マイルスはこのアルバムの中のタイトル曲YOU WON'T FORGET ME1曲のみに参加しているが、この曲を聴くためだけにこのアルバムだけを買ってもいいと断言できるくらい、このトラックは素晴らしい。もちろん他のトラックの出来も一級なのだが、このトラックだけ空気感が全く異なっているのだ。70年代以降一貫してエレクトリック・バンドで演奏して来たマイルスがアコースティックなピアノ・トリオと共演しているシチュエーションも非常に珍しい。
シャーリ−はマイルスと同じヴァイブレーションをもった希有なミュージシャンである。彼女がピアノでコードを一つ弾きボソッと歌いはじめるだけで、部屋の空気は動きを止め日常の喧噪は消え去ってしまう。そんな彼女が、プッと1つの音を吹くだけで聴き手をノックアウトしてしまうマイルスと共演したのだから悪い演奏になる訳がない。
いきなり冒頭からすごい!
マイルスのトランペットがプッと鳴り、それにシャーリーのピアノ、スティーヴ・ウィリアムズのシンバルが絶妙に続き、その余韻の中からIN A SILENT WAYの一場面を思い起こさせるような静謐さをたたえ緊張感に満ちたリズムが浮かび上がってくる。
この数秒間のイントロでもう「参りました」という感じなのだがこの後もまだまだマジックは続く。
この氷の上を歩くかのようなリズムにのってシャーリ−が歌い始め、マイルスがそこにつかず離れずの絶妙な距離感で絡んでくる様はもはや神業である。ひとしきり歌い終わりマイルスのソロとなると今度はシャーリーのピアノが絶妙のバッキングをつける。このマイルスのソロの途中で彼がなにか一言喋っているのが聞こえるが、これもなかなかクールである。このソロでマイルスが吹くフレーズの描くラインには彼の半世紀にわたる音楽生活が凝縮されていて、その美しさを言葉で表すことは私にはとてもできない。
ふたたびシャーリ−が歌いはじめ、マイルスがそこに相変わらず絶妙なオブリガートをつけるが、この曲のコーダはさらに感動的である。そこでマイルスが紡ぎ出すメロディーは世の中との別れを惜しんでいるかのように響き、それはやがて霧の中へフェイド・アウトして、魔法にかけられたかのような7分12秒が終わる。
このアルバムはサイドマンとしての録音なので以外と注目されていないのだが、マイルス・ファンはもちろんすべての音楽ファンに聴いて頂きたい名作である。
お薦め書籍 「マイルス・デイビス自叙伝 I, II」(宝島社文庫)
クラウス・オガーマンClaus Ogermanの名前を知ったのはジョビンのアルバムで編曲者としてのクレジットを見たのが最初である。
絹のようなストリングス、ユニゾンで重ねられたフルートの夢幻的な音色、魅惑的なコーラスなど、単なる編曲という枠を超えた彼の創造性に私は圧倒されてしまった。
ジョビンのアルバムの編曲では「THE COMPOSER OF DESAFINADO, PLAYS」や「WAVE」といった60年代のアルバムでの、シンプルながら輝きに満ちたもの、70年台以降のアルバム「jobim」「URUB」「TERRA BRASILIS」でのボサノヴァの枠を超えシンフォニックな傾向を強めたものなど、非常に多彩であるが、一聴してクラウスのアレンジと分かる一貫した音色があるのも、彼のアレンジの魅力である。
彼の美しいアレンジはビル・エヴァンズの「WITH SYMPHONY ORCHESTRA」、スタン・ゲッツの「VOICES」など一流のジャズ・ミュージシャンのアルバムでも聴くことができる。ハンク・ジョーンズ、ハービー・ハンコック、ジム・ホール、ロン・カーターなどの絶妙のリズム・セクションに多彩なパーカッションと幻想的なコーラスが重なるという、この世のものとは思えない美しいアレンジをバックに切々と歌うスタン・ゲッツのアルバムも非常に素晴らしいが、グラナドス、バッハ、スクリャービン、フォーレ、ショパンといったクラシック音楽の作曲家の作品を取り上げた「WITH SYMPHONY ORCHESTRA」は、クラシック音楽の素養を持つクラウスのこだわりの感じられるアルバムだ。
ビルお得意の耽美的なピアノ・ソロのイントロに続いてのストリングスによる木の葉のざわめくような音形、そしてそれを突然遮って始まるピアノ・トリオによるインプロヴィゼーションという展開で始まるアルバム冒頭のグラナドスの曲から、全体が一つの大きな組曲であるかのように美しいクラシックの名曲が連なる中、クラウスやビルのオリジナルもさりげなく混ざっているところはなかなか憎い演出だ。クラウスのオリジナル「Elegia」はうねうねとした旋律と調性の限界に挑むような際どい和声の交錯する曲で、マーラーやツェムリンスキーなどドイツの後期ロマン派の雰囲気を持ち、このアルバムの中で最も緊張感の強い場面を形作っている。
ちなみに、この「Elegia」は1997年にEMIから発売されたクラウス・オガーマン名義のアルバム「Lyrical Works」にも収録されている。
このアルバムはロンドン交響楽団やギドン・クレメルといったクラシック界の一流の演奏家がクラウスのオリジナル曲を彼の指揮で演奏したアルバムだが、彼のこれまでの音楽を集大成したような内容で極めて充実した仕上がりとなっている。
特に4楽章からなる30分の大作「Lyric Suite」の第1楽章は非常に印象的である。極めて複雑で、しかし妙に心地よい浮遊する和声にのって漂う起伏の大きい旋律は一度聴いたら忘れられない程のインパクトがある。
この美しいメロディーは1982年にマイケル・ブレッカーとの共同名義で発表したアルバム「CITYSCAPE」ですでに聴くことができる。このアルバムはトミー・リピューマのプロデュースの下、クラウスのオーケストラにスティーヴ・ガッド、エディ・ゴメス、マーカス・ミラーなどジャズ、フュージョン界のトップ・ミュージシャンによるリズム・セクションが加わり、その上をマイケル・ブレッカーのテナー・サックスが炸裂するという内容だが、彼はこの非常に複雑な和声を持つテーマをもとに信じられないようなアドリブを延々と、しかもものすごいスピードで繰り広げる一幕もあり、こちらの方もお薦めである。

