マイルスは非常に膨大な数のアルバムを発表しているが、駄盤というものがほとんど存在しない。チャーリー・パーカーの下を巣立ち、自分のグループで活動するようになってからのサイドマンとしての録音は非常に少ないが、ここで最晩年にサイドマンとして参加した素晴らしいアルバムを紹介したい。
そのアルバムとは1990年(つまりマイルスの死の1年前)に録音されたシャーリ−・ホーン Shirley Horn 名義の「YOU WON'T FORGET ME」である。マイルスはこのアルバムの中のタイトル曲YOU WON'T FORGET ME1曲のみに参加しているが、この曲を聴くためだけにこのアルバムだけを買ってもいいと断言できるくらい、このトラックは素晴らしい。もちろん他のトラックの出来も一級なのだが、このトラックだけ空気感が全く異なっているのだ。70年代以降一貫してエレクトリック・バンドで演奏して来たマイルスがアコースティックなピアノ・トリオと共演しているシチュエーションも非常に珍しい。
シャーリ−はマイルスと同じヴァイブレーションをもった希有なミュージシャンである。彼女がピアノでコードを一つ弾きボソッと歌いはじめるだけで、部屋の空気は動きを止め日常の喧噪は消え去ってしまう。そんな彼女が、プッと1つの音を吹くだけで聴き手をノックアウトしてしまうマイルスと共演したのだから悪い演奏になる訳がない。
いきなり冒頭からすごい!
マイルスのトランペットがプッと鳴り、それにシャーリーのピアノ、スティーヴ・ウィリアムズのシンバルが絶妙に続き、その余韻の中からIN A SILENT WAYの一場面を思い起こさせるような静謐さをたたえ緊張感に満ちたリズムが浮かび上がってくる。
この数秒間のイントロでもう「参りました」という感じなのだがこの後もまだまだマジックは続く。
この氷の上を歩くかのようなリズムにのってシャーリ−が歌い始め、マイルスがそこにつかず離れずの絶妙な距離感で絡んでくる様はもはや神業である。ひとしきり歌い終わりマイルスのソロとなると今度はシャーリーのピアノが絶妙のバッキングをつける。このマイルスのソロの途中で彼がなにか一言喋っているのが聞こえるが、これもなかなかクールである。このソロでマイルスが吹くフレーズの描くラインには彼の半世紀にわたる音楽生活が凝縮されていて、その美しさを言葉で表すことは私にはとてもできない。
ふたたびシャーリ−が歌いはじめ、マイルスがそこに相変わらず絶妙なオブリガートをつけるが、この曲のコーダはさらに感動的である。そこでマイルスが紡ぎ出すメロディーは世の中との別れを惜しんでいるかのように響き、それはやがて霧の中へフェイド・アウトして、魔法にかけられたかのような7分12秒が終わる。
このアルバムはサイドマンとしての録音なので以外と注目されていないのだが、マイルス・ファンはもちろんすべての音楽ファンに聴いて頂きたい名作である。
お薦め書籍 「マイルス・デイビス自叙伝 I, II」(宝島社文庫)


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