2002年6月アーカイブ

 もし、あなたがジャーマン・ロックのファンであるなら、コニー・プランクという名前をきっと知っているであろう。もし御存じでなければお持ちのジャーマン・ロックのアルバムのクレジットをよく調べてみて欲しい。彼は多くのジャーマン・ロックのアルバムのエンジニアやプロデューサーとして名を連ねているのだ。特に、クラスターやNEU! 、あるいは、そのメンバーの別プロジェクトのアルバムにコニー・プランクの名前を多く見つけることができるが、少し意外なところでは名盤アシュ・ラ・テンペルのファースト・アルバムにもエンジニアとして参加している。
 
 コニー・プランクについて語る前に、まず「ジャーマン・ロック」という言葉について説明しておきたい。直訳すれば「ドイツのロック」ということになるが、一般的にジャーマン・ロックというと、(かなり曖昧な定義になってしまうが)1970年代のドイツに於ける実験的で前衛的な音楽(ただしシュトックハウゼンらのクラシック音楽やペーター・ブレツマンらのフリー・ジャズは含まない)のことを指している。「ロック」という名称が示唆するように、ジャーマン・ロックは1960年代後半のビートルズやジミ・ヘンドリックスらの当時先進的であったロックの実験的な要素を抽出、発展させた所に一つの起源があるのだが、そこにフリー・ジャズ的な即興演奏や、同じドイツの電子音楽の巨匠であるシュトックハウゼンの音楽、この時期に大きな機能向上を果たしたシンセサイザーなどの様々な要素が混ざり合った結果、音楽自体は「ロック」という言葉が連想されるものとは程遠く、むしろ「テクノ」の音楽性に近いと言えよう。
 それではその「テクノ的」ともいえるジャーマン・ロックの重要な要素とは何であろうか?それは、「電子音」「反復」、この二つであろう。「電子音」はシュトックハウゼン以来ドイツ音楽の一つの伝統とも言えるが、それまでのロックやジャズに見られた音響の肉体的な感触を消し去り、音楽を「音響」そのものとして捉える役割を果たしている。「反復」はディレイやシーケンサーなどで機械的に生み出される場合もあれば、ドラムのビートのように生身の人間の演奏による場合もあるが、その反復が生み出す心理的効果は恍惚と快感である。
 コニー・プランクはエンジニアのサイドから、この重要な二つの要素が生み出す特性を最大限に引き出す大きな役割を果たしているが、その貢献度はアルバムの完成度を左右するほどの大きなものになっている。「音響」そのものが重要な音楽においての録音技術の占める位置が非常に重要なのは少し考えてみればすぐにお分かりだろうが、まさにコニー・プランクは演奏しているミュージシャンと同程度、あるいはそれ以上に音楽に関わっていると言える。彼は「録音機材」という楽器を演奏しているのだ。
 コニー・プランクが録音すると、ドラムのビートの粒は立体的に感じられ、アナログ・シンセの音は暖かみと存在感を持ち、ディストーションを効かせたエレクトリック・ギターの音色は輝かしく響き渡る。音響そのものの位置が極めて重要なジャーマン・ロックにおいてこうした録音技術は音楽自体の質を飛躍的に高めるのだ。そういう訳でコニー・プランクは単に優れたエンジニア、プロデューサーであるだけでなく、ジャーマン・ロック界における重要なミュージシャンであるといって良いであろう。
 70年代は様々なミュージシャンのアルバムを側面からサポートする(とはいえ、今述べたように陰の主役といっても良いほどの強力なサポートである)ことが多かったが、80年代になってから自身がリーダーとなったアルバムを何枚か制作している。そのほとんどが、クラスターの片割れのディーター・メビウスとの共作である。この二人によるアルバムには、Rastakraut Pasta(1979年)での突然変異異型レゲエとでも言いたくなるようなサウンドや、En Route(1986年)でのメタリックなリズム・トラック、それに時折かぶさるドン・チェリー風のアヴァンギャルドなミュート・トランペットの音色など、聴きどころが多いが、すべてに共通していえるのが、比較的シンプルなリズム・トラックと、その上で細かく出入りする生楽器や異様な電子音との組み合わせである。こうした作風は後に大きく発展する事になるテクノを先取りしているといえるが、そういう意味で絶対に外せないアルバムがある。
 それは、このプランク、メビウスという二人にジャーマン・ロック界を代表するドラマーの一人、グルグルのマニ・ノイマイヤーを加えた3人の共作になるアルバム「Zero Set(1984年)」である。この10年後に制作されていたとしても古さを全く感じさせない革新性をもった恐るべきアルバムであるし、実際多くのテクノ・ミュージシャンがこのアルバムからの影響を公言している。
 トランス・テクノのトレードマークともいえるTB-303風の音色のシンセによるシーケンス、そこに加わるマニ・ノイマイヤーのグルーヴィーで手数の多いドラムのリズム、上物としてさらに重ねられる抽象的な電子音響、そしてコニー・プランクのお家芸といえる極上の音響処理、これらが奇跡的に一つに組合わさる事により、テクノ的で且つ肉体的という相矛盾した要素を一つに纏め、他に類を見ない圧倒的な音楽を生み出してしまった。。
 ドラムのパターンにしてもシーケンスのフレーズにしても、もともとは反復を意図して演奏されているのだが、多くの部分を人力(このアルバムの音楽性を一言で表すならば「人力テクノ」という言葉がふさわしいであろう)に頼っているためにどこかで不規則な部分が思いがけず生じてしまう、そんなところにこのアルバムのスリルがあるし、こればかりは現代のテクノ・ミュージシャンが真似ようとしてもなかなかできない部分である。
 音楽の本質的な部分とは直接は関係ないが、各曲のタイトルのネーミングもなかなかテクノ的で秀逸である。以下にタイトルのリストを記そう。

 1. Speed display
 2. Load
 3. Pitch control
 4. All repro
 5. Recall
 6. Search zero
 
 ただ一つの弱点はジャケである。アルバム・タイトルの殴り書きの様なロゴはそれなりに味があるのだが、その下の少し加工したと思われる写真は、「なんじゃこれ?(滝汗)」である。地下通路のような場所でほとんど裸に近い状態で片足を挙げて踊ってる黒人のオバサン(?)、カッコ悪過ぎである。

もっとも Aphex Twin などもかなり意図的に品のないジャケットを作っているのでそういう意味では、テクノの先取りと言えなくもないが。。。

 チャーリー・ヘイデンというと、オーネット・コールマンの歴史的なクァルテットや実験的な音楽性を持つキース・ジャレットのアメリカン・クァルテットのメンバーとしての活躍がよく知られているので、ひょっとするとフリー・ジャズ系のベーシストだと思っている人が多いかもしれない。もちろんそういう方面でのプレイも素晴らしいのだが、彼の本領は4ビート、あるいは2ビートを主体とした伝統的なジャズのスタイルを踏襲しつつモダンな完成を織り込んだ一見地味ではあるが高度な音楽性にあると言えよう。まさに温故知新を絵に描いた様な音楽性である。
 スコット・ラファロ以来、あたかもギターであるかのように至難なパッセージを弾きまくるベーシストは多いが、チャーリー・ヘイデンのように少ない音数で多くを語れるベーシストは私の知る限り他には存在しない。彼の指から紡ぎだされる一音一音が人生そのものであるかのような深みをもって響いて来るのだ。このようなミュージシャンはジャズの世界の中では、彼以外にわずかにマイルス・デイヴィスが思い付くくらいだ。

 彼のリーダー・アルバムは彼のこうした音楽性を反映したものとなっているのでコマーシャル的に訴えかけるものは殆ど皆無で、CDショップでバカ売れということは基本的にないが(例外がパット・メセニーとのデュオ・アルバム)、彼の深遠な音楽を理解すれば、彼のアルバムはかけがえのない一生の宝物となるであろう。
 彼はデュオという演奏形態に大きなこだわりを持っていて、彼名義の初リーダー・アルバム「Closeness」以来、さまざまなミュージシャンとのデュオ・アルバムを作っているが、どのアルバムでもミュージシャン同士の親密で濃密な対話を楽しむ事が出来る。
 ここで、ハンク・ジョーンズとのデュオ・アルバム「Steal Away」を紹介しよう。このアルバムは1曲の例外を除いて、黒人霊歌、賛美歌などのよく知られた民謡ばかりが収められている。収録されている曲名をいくつか挙げてみよう。Nobody Knows the Trouble I've Seen, Swing Low, Sometimes I Feel Like a Motherless Child, Danny Boy, What a Friend We Have in Jesus, Amazing Grace など、日本でもよく知られている曲が多く演奏されている。
 少なくとも演奏している二人にとっては音楽体験の原点といえるこれらの曲を慈しむように演奏しているが、多くの人によって歌い継がれてきたこれらのシンプルなメロディーに染み込んだスピリットが、この二人の演奏によってスピーカーを通して私達の心に伝わるというのは、なかなか感動的である。演奏自体も虚飾を排し、もともとの素朴なメロディーのラインを生かしたもので、二人の深遠な音楽性と精神性が浮かび上がってくる結果にもなっている。
 巷で騒がれている「癒し系」と自称する浅はかな「息抜き音楽」とは次元の全く異なる真の癒しがここにある。癒しとはある面苦い部分も持っているのだと私は考える。例えば、ある有名な黒人霊歌のメロディーを聴くときに、単に知っているメロディーだとか、きれいなメロディーだとかという表面的なことだけでなく、こうしたシンプルなメロディーに純化された、かつてのアメリカで奴隷として虐げられた黒人達の複雑な思いも、私達は一緒に受け止めているのである。
 メロディー自体は分析の必要もないくらいにシンプルなもので、このシンプルな構造のどこにそのような感情が入り込む余地があるのか、論理的に説明する事はできない。メロディーに付された歌詞にそのヒントの一部はあるかもしれないが、それでも完全な説明はできないであろう。
 理由はともかく、シンプルなメロディーと、このメロディーの本来の美しさを引き出すシンプルな演奏、この「シンプル」のデュオが実際に深く私達の心を動かすのであるから、私達は理由など考えず、目の前にある音楽そのものに素直に感動すればよいのだろう。

 ジャズを少しでもかじった人ならウェイン・ショーターの名前を知らぬものはいないであろうが、彼の経歴を辿ってみると、アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズ、マイルス・デイヴィスのハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムズを擁した究極のクインテット、ジョー・ザヴィヌルとのあまりにも有名すぎるユニット、ウェザー・リポートというように、常に最高のバンドでの要の役割を果たしている。
 彼のサックスのプレイ自体ももちろん非常に素晴らしいが、コンポーザーとしての才能もずば抜けている事は、彼のことを知っている人は誰しも知っているであろう。

 そんな彼でも完璧主義からか、周りのプレッシャー故なのか、80年代以降は彼名義のリーダー・アルバムの発表のペースが極端に落ちているが、それはともかく1995年に発表されたアルバム「ハイ・ライフ」は恐るべき作品である。
 そのアルバムの完成度の割にはあまり注目されなかったように思うし、私も当時アルバムの存在を知りつつもなんとなく最近まで聴かずに済ましていたが、彼の新作のライヴ・アルバム「フットプリンツ・ライヴ!」のライナーにこの「ハイ・ライフ」が過小評価されていることを嘆いていた文章を読んで興味を持ち、試しに買って聴いてみたところ、あまりに素晴らしく、今までこのアルバムの価値を知らなかった自分を恥じてしまったほどであった。
 正直、このアルバムの第一印象はかなり地味な感じであった(ジャケットは少なくとも絶対地味だ)。このアルバムの売りはマーカス・ミラーがプロデュースし、ベース・プレイヤーとしても全面的に参加しているというものだが、それが逆に変な先入観を持たせてしまったのかもしれない。しかし、このアルバム、聴けば聴くほど素晴らしさがどんどん滲み出てきてくるのである。

 このアルバムの最大の聴きどころはウェイン・ショーターの作曲とアレンジ双方の素晴らしさであろう。アルバムの中のほぼ半数の曲ではオーケストラが参加しているが、ウェイン特有の浮遊間溢れる和声、うねうねしたメロディーラインがオーケストラのサウンドで演奏されると、えもいわれぬ宇宙的な広がりが立ち表れるのだ。オーケストラと言っても弦楽器はそれ程大編成ではないのでいわゆるシンフォニックな響きとは多少違うのだが、ギル・エヴァンスの少しクセのある独特の色彩感、クラウス・オガーマンの唯一無二の絹の様なサウンド、ウェザー・リポートのカラフルで楽園的なサウンドが絶妙な割合でブレンドした様なオーケストラの響きが、マーカス・ミラーの自在なベースラインの上で漂う様は麻薬的な魅力を持っている。オーケストラが使われていないその他の曲でもシンセやギターが巧みなプログラミングとアレンジによってオーケストラとはまた違ったカラーと広がりを生み出していて、オーケストラを起用した楽曲の間にうまく配置される事によりアルバム全体のサウンドの多様性も生み出している。
 この手の、ジャズ・ミュージシャンのソロイストをフューチャーしたオーケストラ付きの作品の多くでは、オーケストラが単にゴージャスなムードを作る背景的な役割しか与えられていないのに対し、この「ハイ・ライフ」でのオーケストラ・パートにはかなり積極的で重要な役割を与えられている。
 このアルバムでのアレンジ上の最も重要なポイントは「リフ」である。ある時はベースラインだったり、またある時はオーケストラやシンセのコード進行だったりと、曲ごとに楽器は異なるものの、アドリブの部分を含めて常にどこかでリフが演奏されているのだ。そもそもアドリブのスペース自体がウェイン・ショーター以外にはほとんど与えられていないので、彼のサウンド以外はほとんどリフであると言えるかもしれない。このリフに絡まるようにウェインのアドリブが繰り広げられるのだが、一般的なジャズの演奏によく見られるテーマ〜アドリブ〜テーマという単純な展開ではなく作曲された部分とアドリブが渾然一体となって展開されるような複雑な構成のアレンジになっている。
 「リフ」と単純に言っても1〜2小節のモチーフやコード進行といった一般的な意味でのリフだけでなく、比較的長いテーマが何度も繰り返されることによって、それがリフとして機能するようになり、そこにアドリブが絡み付くように展開されたり、などといったことも行われている。
 実はこうしたことの元ネタは彼のマイルス時代のもはや古典となってしまった名曲である「ネフェルティティ」に表れている。この曲はテーマが何度もひたすら繰り返されることで有名な作品であるが、勘の鋭い何人かの人が指摘しているようにこの作品は反アドリブの作品ではなく、繰り返されるテーマの裏でリズム隊によって激しいアドリブが繰り広げられる作品なのだ。さらに突っ込めば、ここでのテーマは一種のリフと化しているのである。こうした現象が「ハイ・ライフ」のいくつかの作品ではオーケストラがリフと化したテーマを繰り返し演奏する中、ウェインがアドリブを繰り広げる、という形に発展しているのである。

 この様に書いていくと、じゃあマーカス・ミラーの存在感は薄いのか、と勘違いされそうであるが事実は全く逆である。もちろん彼のリーダー作で見せる様な超絶技巧のベースプレイは聴く事はできないが、主役のウェインを立てつつもかなり独特で複雑なベースラインをアルバム全編で紡ぎ出し、全体のサウンドをうまく引き締めている。曲によってはフレットレスのベースも弾いているが、こうなると嫌でもジャコのいた頃のウェザー・リポートを想起させずにはいられない。
 かなりライヴ感の強いロック的なドラムのサウンド(スネアの音の抜け方は最高!)の割にはマーカスのベースはいつものようなファンキーさを意図的にかなり抑制してプレイしているように聴こえ、非常に細かく複雑な動きをするベースラインは抽象的な雰囲気すら醸し出しているが、これがロックでもジャズでもクラシックでもないジャンル分け不明のオリジナルなテイストを作っている。
 ウェインのアドリブは、「ジャズのジャンルで有名になった名手が即興演奏をしているから」という理由のみからジャズとカテゴライズされるに過ぎず、本人はジャズでもなんでもない、ただの「音楽」を演奏しているつもりなのだろう。ウェインのアドリブを除くと、もはやそこにジャズ的テイストは皆無である。ジャズでもロックでもクラシックでもない、単なる「音楽」として力強く存在しているだけだ。
 多くのジャズ・ミュージシャンがやれエレクトリックだ、やれファンクだ、やっぱりアコースティックで4ビートだなどと、時代の流行のみで表面的にスタイルを変化させ、結局「自分の音楽」を持てずにジャズというクリシェの奴隷になっているが、ウェイン・ショーターは自分の音楽を表現するためにこうした様々な種類の音楽やサウンドを利用しているだけで、彼から「ジャズ」という言葉を取り去っても彼の音楽には何の影響もないのだ。

 先にも述べたように、このアルバムでは様々な様相を持ったリフが全編に流れそこにウェインのサックスが絡み付くようにアドリブを繰り広げるのであるが、テーマ対アドリブ、ソロ対オーケストラ、などといった対立ではなく、両者の融合が試みられている。何となく聴いていると知らない間にテーマからアドリブに移っているように聴こえるし、ウェインのサックスの音色もオーケストラの音色にうまく溶け込んで両者が寄り添い合って演奏するように感じられるのだ。ウェインはしばしば複数のサックスをオーバーダビングすることによって複数のサックスがアンサンブルしているようなサウンドを作ったり、オーケストラのメロディーのオブリガートとなるパートも演奏したりと、表から裏まであらゆる役割を果たしているため、余計にオーケストラとの一体感が深まっている事も重要である。そもそもこのオーケストラ・パートはウェイン自身によって作曲、オーケストレイションされているのだ。

 それにしても彼のソプラノ・サックスでのアドリブの凄まじさはどう表現すれば良いのであろうか。もちろん、深みのある音色で自由に語る様なテナーのプレイも素晴らしいのだが、ソプラノのプレイはそれをはるかに上回る神業の領域にまで達していると思う。なんというか、とても人間が演奏しているとは思えないのだ。彼のプレイを「飛翔する」なんて表現するのは簡単なのだが、ただ空を飛ぶだけではない、宇宙、あるいは天国まで飛んでいくのだ。そして飛んでいってしまうだけではなく軽やかに私達の世界まで一瞬で舞い戻り、そしてまたすぐ天へと翔ていく。。。こんな客観性を欠いた表現をするしかないのだ。
 このアルバムのタイトルにもなっている「ハイ・ライフ」を聴いてみよう。いきなりオーケストラによる神秘的な音色と浮遊する和声のコラール風のフレーズが楽園的な感覚へと誘うが、そのコラールに絡み付くサックスのアルペッジョが楽園での浮遊感と非日常性を増幅させる。その後すぐ始まる美しいテーマとその下で演奏される込み入ったベースラインは完全に同格なものとなっていて、複雑極まりない和声進行のもとで繰り広げられる両者のポリフォニーがエスニックなパーカッションのリズムと共に繰り広げられ、サックスのソロがそこにさらに絡み付くように加わってくる。曲の真ん中辺りでマーカスのベースのフレーズが一瞬フューチャーされるところがあり、そこから曲の最後に向かってオーケストラによるリフ風のメロディ(これはマーカスの演奏したフレーズが発展してこのオーケストラのメロディーへ繋がるように計画されている)が繰り返されながらエネルギーを増してクライマックスを形成するが、そこに加わって演奏される何かが取り憑いたとしか思えないウェインのソプラノのアドリブの驚嘆すべき素晴らしさは、このアルバムのハイライトとなっている。この最高の盛り上がりであっけなくフェイド・アウトしてしまうのは少し残念な気もするが、フェイド・アウト後のテナーとピアノとの親密なデュオで一気に別世界へと移行していく構成の都合上、ある程度はやむを得ないのかもしれない。

 ウェイン・ショーターとマーカス・ミラーという、それぞれ60年代、80年代のマイルス・バンドの(楽曲提供、演奏双方の)キー・パーソンががっちりとタッグを組んだこのアルバムであるが、作品のどこを聴いてもマイルス臭がほとんど感じられないのは少し不思議に感じるかもしれない。いや、二人ともマイルスの威光を借りなくとも十分に素晴らしいミュージシャンなのだからそれも当たり前だとも言える。しかし、いずれにせよ二人のマイルス・バンドでの貴重な経験の成果がこのアルバムでの注目すべきリズムの扱いに表れていることには注意しておきたい。マーカスの細分化されたシンコペーションを駆使して生み出される独自のグルーヴと、ウェインのビートの隙間をすり抜けていく様なリズム感が生み出す予測不可能で伸縮自在なフレーズ構造の結婚は、マイルスのもとでの二人の経験がなければ決して生まれなかったであろう。

 とりとめもなくこのアルバムの印象を書き綴ってきたが、ウェイン・ショーターはこの音楽を「祈りの音楽」として作ったのであろう。彼にとっての「祈り」とはサックスを演奏する事であり、この「祈り」を通して精神の高みへと登ろうとする過程(いや、彼はもう登り詰めているのかもしれない)や、彼の祈り(=サックスの音色)を通じて我々に「神の光」を顕現させようとする試みがこのアルバムに収められているのだと私は信じてやまない。
 それほどまでにこのアルバムは素晴らしい。ジャズの愛好家であろうとなかろうと是非とも「体験」して頂きたいアルバムである。

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おしらせ

双子座三重奏団うるう日ライヴ
2012年2月29日19:00-
門仲天井ホール

双子座2012チラシtogo.jpg

中川俊郎:バッハーズ・アロウ
森田泰之進:こうふくのしま
鈴木治行:蛇行
山本哲也:スライドホイッスル三重奏曲
ケージ:ラジオ・ミュージック
ほか

出演:
曽我部清典(トランペット)
中川俊郎(ピアノ)
松平敬(声)

コンサート詳細はこちらまで

■タリス:40声のモテット
(一人の歌手による多重録音)

ご試聴、ご購入は以下まで
iTunes
e-onkyo music
OTOTOY

■松平敬 1stアルバム
《MONO=POLI》

 マショーからケージまでの声楽アンサンブル作品を、多重録音によってすべて一人の声のみで演奏したアルバム。
 16声部のリゲティ《ルクス・エテルナ》も収録。

ENZO Recordings
EZCD-10006
平成22年度文化庁芸術祭
レコード部門優秀賞受賞作品

文化庁芸術祭シンボルマーク

プロモーション・ヴィデオ

ご購入は以下まで:
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TOWER RECORDS ONLINE
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