パゾリーニの遺作であるこの映画はありとあらゆる吐き気を催すようなものの詰め込まれた壮絶な作品です。1. 地獄の門、2. 変態地獄、3. 糞尿地獄、4. 血の地獄、と4つの部分に分けられていますが、これを見ただけでおおよそ内容は想像付くと思います。単に内容の過激さだけで行けばその手のヴィデオの方が上を行くのでしょうけど、この作品の凄まじさはこのような凄まじい内容にも関わらず芸術作品として存在している、という事実です。どんな吐き気を催すような場面であっても映像は甘美なまでに美しく、ほとんどサロン風のピアノの演奏(ショパンの作品も含まれています)のみに終始するサントラ(モリコーネが担当)も素晴らしい効果を上げています。4人の権力者は本当にわがまま放題、自身の変態趣味を満喫していますが、このキャラクターの描き方も巧みです。
戦争などの異常事態になると、このような悪徳行為が蔓延するというのは話によく聞きますが、それを冷酷なまでにリアルな映像として描き出した、世の中をきれい事ではすませないこのパゾリーニの鬼才には恐れ入るばかりです。
大体の「過激な表現」というものを受け入れられる私ですら、目を覆いたくなるようなシーンが多かったのですが、シュトックハウゼンの「芸術とは日常からの逸脱である」という発言などを思い起こすとこの作品が芸術作品として存在しえる理由も分かる気がします。


この映画、劇場公開時にはゲ○吐いちゃったお客さんが相当いたそうですね。
僕も何度か観ましたが、変態行為の寓話を♪ラララララ とか歌うシーンが、異様におぞましいです。
映像そのものもすごいですけど、それ以外の細かい演出がそうとうキテルんですよね。
見せしめでのどを切られて殺された少女の死体を前に、くだらないオヤジギャグをいってガハハと笑う所とか、自分の目の前で殺された母親の事を思い出させたところでウ○コを食べさせたり(オエっとか本当に吐きそうな迫真の演技もすばらしいです)とか、背筋が凍りそうになります。
「権力」への対抗の一形態としての「変態」というのはフランス文学などに多く見られるものであることを最近知りました。
それ以前は、文学の一部には、サドとかバタイユとか、なんであんなにエログロナンセンスなものが文学として高く評価されているのか理解できませんでしたが、ナチズムに象徴される「権力」の恐ろしさを直接体験してきたヨーロッパの作家たちにとっては、「変態」の世界へ没入することは人間の自由を謳歌することであると同時に、虐待のトラウマを引きずり続けることでもあるのではないかと思います。
私個人的には、ナチズムが恐ろしいのは言うまでもありませんが、しかしそれへの反動としてサディズムに没入してしまうこともある意味悲劇だと思います。
「権力」への対抗文化としての「変態」を実践する人は悲劇的だと思いますが、それを第三者の立場から考察することによって、自分の心の無意識の暗部を暴き出されますので、おのれの現実の心の動きを深く省みるには適していますし、また自分の中の混沌としたかたちをとらない原始的衝動が映画などの表象によってかたちを与えられることによって、その衝動が現実に実行される以前に表象の中に吸収され、無化されてしまう効果もあり得ることを考えれば、それはある種の救いでもあります。人間の醜さを、一貫した知性を持って見つめ続ける作品が、単なる興味本位のゲテモノ以上の芸術的価値を持ち得る理由はこの辺にあるような気がします。
かといって、パゾリーニ的な、「権力への対抗としての変態」に没入することは、彼が謎の死を遂げているところに暗示されるごとく、自殺行為的な側面をも併せ持つ諸刃の剣なのではないかと思います。似た意味で、私たちはニーチェやバタイユのいのちがけの思想から「救い」を与えられることがあるとしても、彼らの思想を手放しで賛美したり、また世のエログロ文化、悪徳行為の存在を無責任に肯定する理論的根拠として利用したりすることは、やはり思想の勘違い的な受け取り方になってしまうと思います。
願わくば、おのれの中に潜在的にうごめくナチズム的なもの、サディズム的なものに気づいたなら、ナチズムにもサディズムにも陥ることのない、もっと人間が人間らしく、よりよく生きられるための普遍的な道を見出されんことを(特にまず自分に対してつよくそう願うのです)。
したがって、もちろん、自己の精神の暗部を解剖するための判断材料としてのナチズム研究、サディズム研究の存在理由はあると思います。それがオタクやフェチなどの興味本位・盲目的衝動の次元にとどまらない、「人間とは何か」との根源的な問いに発する真剣な問題意識を備えた探求であれば、最終的には人類の精神的向上のための反省的資料や分析結果としての価値ある成果として残り得るのではないでしょうか。
とはいえ、これは、結論を与えるのには極めて困難かつ深刻な問題として、倫理学が最終的に対決しなければならないものなのかもしれません。その意味では相手が大きすぎます。その「相手」とは、他ならぬ自分自身なのかもしれませんし。
とりあえず、こうした人間の盲点ともいうべき問題を避けることなく話題に取り上げ、考えさせる機会を与えてくれた芸術家であるまっちゃん@シリウス様の勇気に敬意を表したいと思います。
芸術は単に美しいものだけではありません。ピカソの「ゲルニカ」、シェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」など、(単なる政治的、倫理的な告発ではなく)人間の残虐な面を表現することも芸術の一つの役割です。
「ソドムの市」もそうしたものの延長線上にあると考えればそれほど奇異なものではないと、捉えられるのではないかと思います。