作曲家の伊東乾氏が、日経のウェブサイト上の記事で、読売新聞の浅田彰氏のシュトックハウゼン追悼記事を批判する文章を書いています。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20071214/143133/?P=5
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20071214/143133/?P=6
伊東氏とのお付き合いは決して長くありませんが、今年の双子座三重奏団のライヴで伊東氏の新作初演を行い、今年のキュルテンでの講習会でも一緒でした。
伊東氏にとってシュトックハウゼン講習会は今回が初めての参加でしたが、様々な面で大きな感銘を受けている様子が窺えました。
浅田氏の追悼記事は、シュトックハウゼンへの誤解と偏見に満ちた醜悪な記事で、追悼どころか故人を冒涜しているような印象すら受けましたが、このような形で反論が出ることによって、少しでも誤解や偏見がなくなる事を願います。


読売のその記事は全く拝見しておりませんが、伊藤君の反論文書にたどり着くことが出来ました。
所謂「ルチファーの偉大な芸術」発言ですね。この放送を僕は再放送ですが直接SWR・FMでほぼ無修正の形で2回ほど聴くことができました。結論を言いますと彼は世論一般に向かってそういうべきではなかったと思います。なぜなら芸術は「悪」ではなく「善」であるのが一般通念で、それに向かって政治家が彼のコンサートに補助金を出しているのが前提であるからです。もちろん彼は右翼でも何でもなく、悪意もなく、政治自体に全く関心がなかった人です。ただ彼の晩年は進化しすぎたのか現実とあの世との区別が余りつかず言いたい放題だったと思われます。やっぱり言うべきではなかったですね。でも彼はコンサートの前で忙しすぎて突撃インタビューのような形であったにしてもです。
僕もシュトックハウゼンは直接知っていましたが、所謂取り巻きではなく、反対者でもないですが、残念ながらあの誤解は全世界に飛んでしまいましたね。
別の音舞会でも助川さんが批判的な異見だったので自分の見解を入れておきました。http://6609.teacup.com/onbukai/bbs
Shigeru Kan-noさん>
コメントありがとうございます。
>直接SWR・FMでほぼ無修正の形で2回ほど聴くことができました
放送自体は聞いていませんが、その放送が「編集されたもの」のはずです。
編集されていない会見の全体を収めた録音を手に入れるのにシュトックハウゼン自身が、会見に出席した記者たちを(かなり長い時間をかけて)しらみつぶしに当たった位ですから。
もちろん結果的には言うべき発言ではなかったのですが、シュトックハウゼンではなく第一報を報じた記者の悪意が責められるべきでしょう。第一報では「ルシファーの」という部分が全く欠けていて、あとで言い直した、とされてしまったことも納得がいきません。会見の記録を見ればそのことは明らかです。
>彼は世論一般に向かってそういうべきではなかった
「世論一般」に向かっては言っていません。念のため
まず、その会見自体はハンブルクでのシュトックハウゼンの一連のコンサートに先立って行われたもので、その中には「光」の「金曜日」の全曲演奏も含まれていました。悪魔ルシファーがこのオペラの主要キャラクターの一人である事も当然記者達は知っていた筈です。ちなみに「金曜日」は「ルシファーがエヴァを誘惑する日」です。
「光」に関する質疑応答がしばらく続き、シュトックハウゼンは毎日(天使)ミカエルに祈るが、(悪魔)ルシファーには決してそうしない、そしてルシファーはNYに現実にいる、と発言しました。
その発言に対し、ある記者(その記者が例のニュースの第一報を伝えた)が、「ヒュムネン」の「人類の調和を音楽作品として可聴的に表現する」というプログラムノートを引き合いに出し、そのことをふまえてNYで起こった事をあなたはどのように表現するのか?と問われ、シュトックハウゼンは「思考のチャンネルを切り替えなくてはならない」と前置きした上で「かつて存在した中で最も大きな芸術作品」と述べているのです(文脈からルシファーによる芸術作品と言っているのは明らかですね、間違ってもこの行為を賞賛しているようには取れません)。それに続く発言で、長時間にわたって周到に準備し最後に自爆する行為をコンサートの準備に喩え、私には作曲家としてそのような「作品」を生み出す事は決してできない、とも述べています。
話がおかしな方向に流れていくのを察知したシュトックハウゼンはその記者に「私をどこに導いていくのか?」「君がルシファーかもしれない。」(そして実際そうなりました)などとも述べ、一般の人がこの話を聞けば誤解を生むだろうからオフレコにして欲しいとも記者達に頼みました。
そして、例の記者はオフレコの約束を破っただけでなく、あたかもシュトックハウゼンがテロ行為を賞賛しているかのように文脈をねじ曲げて大々的に報道し、その後の展開はご存知の通りです。
質問の仕方も、そうした発言を引き出さんばかりの誘導尋問的なものを感じますし、あの映像を繰り返し放送し「芸術作品」に仕立て上げたのはむしろメディアの方ではないでしょうか?
私がここに書いてある程度の情報は、「事件」の少し後から容易に手に入れられたのですが、噂話のように猛烈な勢いで広がるメディアの報道に埋もれて現在に至るまであまり知られていないようです。
浅田氏の「追悼文」に対してわたしの感じるところを記しておきました。ご覧いただければ幸いです。
http://25237720.at.webry.info/200712/article_15.html
中路さん
リンクありがとうございました。
早速拝見しましたが、
>浅田氏にとって「シュトックハウゼン」とは、彼のゲームの中に登場する一キャラクター、「誇大妄想的な前衛音楽家」というキャラクターの名前でしかないようだ。
これは、まさに言い得て妙だと思います。浅田氏が彼にとって何の実在感もないシュトックハウゼンの追悼文を書くという状況は怒りを通り越して滑稽にすら感じます。
>その夢は時に危険な誇大妄想と見なされもした
「誇大妄想」呼ばわりしていたのは浅田氏本人なのですが、自分の過去に対しても実在感がないようです。
昨日Katrinとこの追悼文について話してたんだけど、ドイツのどこかの新聞で、”シュトックハウゼンは世界で最も美しい女性たちをもったい人だった”なんて、お茶目な追悼文がでてたらしいですよ.きっと彼の事を良く知っている方なのでしょうね.
今度コピーしてもらっときますね.
Kazさん>
是非ともその記事読んでみたいです。
「モメンテ」「ハルレキン」「LICHT」など、彼の愛した女性たちへの愛が作品の至るところから感じられますね。
報道機関は国籍を問わずこういうやつはどこでも悪意に取りますね。
彼の場合、当時世界でトップの作曲家でしたから、何言っても許されるはずでした。事実音楽的には彼に対抗できるものはいませんでした。
ただ9.11の直後だったものですから、その発言は政治的な意図と受け止められることのほうが多かったようです。それほど世間は単純なはずでアルカイダの敵・味方しか感心がなかったはずです。彼の場合の発言はそういうときだからこそ一句一句重みがあったはずです。
まあここの人は違うと思いますが、ドイツ国内においても一般の人たちはルチファーやミカエルがどういう意味で何者であるかは知っていないのです。だから彼のああいう発言は何言っているのか全く理解できないはずです。ほんとは世間からは徳がある人格者からの単なる「犠牲者への追悼」を期待されていたはずです。そこに「ルチファーの芸術」が出てきたので驚いたわけです。リゲティはユダヤ人だし、共産主義の犠牲者でもあるしそこまで理解できるはずもありません。ラッヘンマンやブーレーズらも同様でしょう。
もう一度書きますが報道とはこういうものでしょう。シュトックハウゼンが善人・悪人であるかはどうでもよく記事になって売れることしか興味がないのです。それをそのまま信じる大衆も問題ですが。そのこと自身をルチファーといってもよいでしょう。
昨日シュトックハウゼンのメモリアルコンサートに行ってきました.
いろいろ金銭面での事も考えて、半分あきらめていたけど、行かない訳にはどうにも気持ちがおさまらなくなってきちゃったので....そのときカティンカにモメンテの楽譜の件を聞いたら、クリスマス後に郵送するといっていたので、コンサートのプログラムも同封するようお願いしておきました.入ってなかったら教えてください.次回持って帰ります!
Shigeru Kan-noさん>
>ドイツ国内においても一般の人たちはルチファーやミカエルがどういう意味で何者であるかは知っていないのです。
本当ですか!?
キリスト教の文化圏から遠く離れた私ですら知っている有名な天使や悪魔のことすら知らないとは。。。
それならシュトックハウゼンが「誇大妄想」の「神秘主義」に溺れた作曲家と思われても仕方がないですね。悲しいですが。
そうすると天使の登場するハイドン「天地創造」もシェーンベルク「ヤコブの梯子」も今の世の中ではきちんと理解されない、という事態である、ということになります。。。
ちなみにラッヘンマンは彼のオペラ「マッチ売りの少女」で、あるテロリストの書いた文章を(ある種の共感すらもって)使用していますが、それに関してはお咎めなしでしたね。
ブーレーズはあの事件の後、はるか昔の「オペラ劇場を破壊せよ」という発言が原因で、テロリストとの関連を疑われ警察に一時拘束されたのも笑えない話です。
kazさん>
「モメンテ」のスコアのことありがとうございます!
コンサートのプログラムのPDF版は見ましたが、後半はカティンカがミキシング・コンソールに座っていたのですね。不思議な気分です。
シュトックハウゼン問題、私の専門のロシア音楽と本質的に似ています。マスコミや専門家でない「知識人」は、物事の本質を全く見ようとしないですね。もっともロシアの場合、専門家と称している人々も不勉強の極みですが。そして経済成長に浮かれるロシアでは、祖国の文化や芸術が猛烈なスピードで忘れられつつある点も、何だか状況が酷似しています。
ハローさん>
例のショスタコ企画の解説を読んで、そうだとすると今までの「定説」は全く逆になるのか、という目から鱗の記述が沢山ありましたが、これはシュトックハウゼンに関わる事と共通するな、というのは私もその時感じていました。
よく言われる「シュトックハウゼンの70年代以降の作品は神秘主義思想に溺れて音楽的には質が低い」というのは様々な「専門家」の人が言っていた(言っている)ので、かつてはそれを鵜呑みにしていたのですが、実際に作品をじっくりと聴いてみると、それが全く嘘だと言う事も分かりましたし、かなりの人が作品を聴く事すらせず印象だけで無責任な情報をまき散らしている現実も目の当たりにして絶句したものです。
ところでショスタコーヴィチとシュトックハウゼンには手紙のやりとりがあったらしいですね。
日本と同じじゃないですか?普通の教会はイエスがどうのこうのモーゼがどうのこうのとは言いますがミカエルが、アーリマンが、ガブリエルがどうのこうの言う司祭はいないですね。そもそもそういうことは大学の神学部で教えないです。よほどそれに凝っている人じゃないと知らないですね。もちろん人の名前にガブリエルとか残っていますが、単なる天使の名前なのでおめでたいぐらいでしょう。
どういう作曲家もそういう黒ミサ的要素の作品は書いているのではないでしょうか。シュトックハウゼンの場合は時期が悪かったのでしょう。あの大惨事の直後ですからね。ラッヘンマンは過去のテロリストですね。世間では歴史物語ぐらいにしか思わないのでは?ブーレーズはあの発言は「シュピーゲル」誌のインタビューだったらしいのですが、それが大テロ活動の直後だとか特定の事件と結びついているわけではないですね。9.11の事件はとにかく大きかった。TVでも生中継でぶつかるとこ見たし、それがアフガニスタンやイラク戦争に発展して未だに世界の大問題化でしょう?シュットックハウゼンは当時ケージ亡き後の最大の作曲科だったし。ブーレーズは指揮活動で作曲数が少ないので一歩後退している嫌いがありますね。リゲティーやクセナキスは作曲しかしないし。出版社・レコード会社・指揮までやる派手なシュトックハウゼンを世界が注目するのも無理はないと思います。
ここにはシュトックハウゼン取り巻き組みの方が多いようなので僕は多分そこからは外れますが、彼への評価はラッヘンマンと同意見です。初期は天才的ですが後期はやっぱり???を立てちゃいますね。かといって1966年のダルムシュタットの彼の最後の講義に荒れた抗議文にかかわっているのでもありませんが、常に冷静の目で見ているつもりです。
現在のSWRの批評はもっときつくて委嘱を入れておきながらこれは何とかして残る音楽じゃないだろうかと査定しているようです。
シュトックハウゼンの音楽は彼のインタビューを何度もラジオで流しているとおりに政治的な要素は一切ありません。本人は全く政治には関心がありません。政治音楽家だったショスタコーヴィッチ・ユン・ノーノと全く違うところです。それながら9.11に巻き込まれたのはインタビューの失敗とともに、そのまま世間にそう仕立てられてしまったのですね。
Shigeru Kan-noさん>
>シュトックハウゼン取り巻き組み
ちょっとこの表現だけは気になります。まるで宗教の信者みたいな感じですからね(笑)。
彼の音楽、人間性の大ファンではありますが。他の人たちもそうだと思います。
私もキュルテンに行くまでは、そうした目でシュトックハウゼンを見ていた事も告白しなくてはいけませんが(変な宗教儀式が行われていたらどうしよう、とすら思いました)、実際に行ってみてその偏見がなくなり、それ以来、作品に対してもフィルターをかけず、ようやくまっすぐ向き合えるようになりました。
>初期は天才的ですが後期はやっぱり???を立てちゃいますね。
どの時期もまんべんなく作品数があり55年ほどの作曲期間があるので、初期、後期というくくりは分かりかねますが、仮に一般的に評価の低い1970年前後以降の40年間ほど(相当長いですが‥)を後期として、差し支えなければ、以下の代表作について具体的にどの曲が音楽的に見て「???」なのか教えて頂けますでしょうか?
AUS DEN SIEBEN TAGEN
MANTRA
INORI
SIRIUS
DONNERSTAG aus LICHT
SAMSTAG aus LICHT
MONTAG aus LICHT
DIENSTAG aus LICHT
FREITAG aus LICHT
MITTWOCH aus LICHT
SONNTAG aus LICHT
KLANG
思想的なことは抜きにして、音楽的に彼の全作品を見渡してみると、どこかで作品の質が極端に落ちているようには私には思えないので(むしろ熟成してきているように思えます)、Kan-noさんが、どのように彼の作品を評価、批判しているのか興味があるのです。
あと、天使云々という話ですが、例えばLICHTを理解するためにはミカエル=善い天使、ルシファー=悪魔、エヴァ=アダムの妻、誕生の象徴、しばしば聖母マリアと結びつけられる、の程度の知識があれば楽しめるはずです。私が驚いているのは、ヨーロッパの一般の人がその程度の知識すら持っていないのか、ということです。私の理解に誤解があればご指摘下さい。
「取巻き組み」という言葉はベルリンの評論家の大倉文夫君が使い出したものですが、実際にはJeinのようです。いるときはいるんですがいないときは全然いないという感じですね。ただシュトックハウゼンの音楽がWagnerと似ていて熱中しやすいのは確かです。余り彼に近づくと彼全体が見えなくなるので出来るだけ客観的に見ようといつも自分はしています。キュルテンに全く行ったことがないのはそのためかもしれません。彼自身は重要な作曲家なのですが、どれだけ重要なのかは意見が分かれます。要はリゲティやクセナキス・クラスの水準なのですが、それからまたどれだけ離れているのかは歴史の判断を見ないとわからないようです。ただ彼自身はとにかく何でもやったのでどこでも目立っていましたね。これだけは事実のようです。彼が講義すると普通は数百人は集まるものですが、結局のところ現代音楽家の宿命も一緒に背負っていて、ある時シュトットガルトの音大が予定表だけで全く広告しなかったら数人しか集まらなかった時もあります。このとき彼の飾り気のない本当の人間的な一面を見ることが出来、スーパースターのシュトックハウゼンといえどもわれわれと同じ現代音楽人で、マイナーな世界の共有は自分たちと変わりないこと共感しましたね。
こんにちは。
シュトックハウゼン氏が亡くなったと聞き
喪失感を味わっています。
たびたびこちらを覗かせていただいております。
二年前の来日コンサートにも行き
シュトックハウゼン氏はパワーの強い人だと思いました。
オーラも何も見えたりしない私でさえそう感じざるを得ませんでした。
彼は三羽ガラスなどとも言われているようですが
はっきりいって群を抜いた才能を持っている人でしたね。
ところでKan-no氏のコメントを傍から見ていて
いろいろ気になった点がありますが
以下の一文には誤解があるといけないので
一言いわせてください!
>シュトックハウゼンの音楽がWagnerと似ていて熱中しやすいのは確かです。余り彼に近づくと彼全体が見えなくなるので出来るだけ客観的に見ようといつも自分はしています
これは、世間でいわれているところの「ワグネリアン」ということばを前提にお考えのようですがこれは管理人さんに対する挑戦的な言葉に見えますね。なぜなら「ワグネリアン」は狭い視野からのワーグナー至上者主義「ワーグナーに溺れている者」を指しています。たとえば、名指揮者のフルトヴェングラーも、ワーグナーをこよなく(正しく評価しつつ)愛する者=ワグネリアンという図式は誤りである、と言っていたと思います。
ニーチェのように、ワーグナーに全面的な献身を誓い、盲目になって(後に愛ゆえの裏返しか牙をむくことになりましたが)耽溺した人こそ「ワグネリアン」なわけです。なので、安易に「ワーグナーと似ていて熱中しやすい」などという言葉は使われないほうがよいと思います。
たとえば管理人さんはクラシックのみならず
さまざまなジャンルの音楽を愛しているようですし
全体像を俯瞰したうえで、あえてシュトックハウゼン氏の偉大さを述べているわけですから、十分客観的な視点をお持ちだと思いました。
>シュトックハウゼンの音楽がWagnerと似ていて熱中しやすい
特にワーグナーと比較する必要はないと思いますが。。。
両者の音楽的な共通点=作品が長い、くらいでしょうか(笑)
LICHTのSuper Formelが「指環」などの楽劇のライト・モチーフに相当する、といったごく表面の相似点はありますが、作曲技法としては完全に別ものですよね。
私の場合は、興味があるから聴いたり演奏する、ただそれだけです。
念のために申し添えておきますと、シュトックハウゼン全肯定、あとの作曲家は否定という極端な立場では決してありません。
>余り彼に近づくと彼全体が見えなくなるので
私に関して言えば、キュルテンに行ったくらいでシュトックハウゼンに近づいた、ということはとても言えません。もちろん物理的な距離は近いので気軽に話しかけたり質問したりする事は出来ますが(笑)。
個人的にはキュルテンに行くことが、彼の作品、人間性ともに様々な側面を見る良いきっかけになったと思いますし、自作の詳細なアナリーゼの講義を受けて彼の作曲技法を詳細に勉強する事が出来ましたので、Kan-noさんが近くにお住まいにも関わらず、キュルテンに行かなかったのは非常に勿体ないことだったと思います。
近づく、近づかないに関わらず、単純に全ての作品を聴いたり研究したりするだけで、ものすごい時間がかかりますね。例えば、LICHTに関してはもちろん一通り音源を揃え、楽譜もかなり集めて勉強していますが、まだ完全に演奏時間29時間の音楽の全貌を完全に把握するまでには至っていません。「木曜日」の第3幕などはようやく良さが分かってきました。何度も聴き返して、ようやく面白さが分かることも多いです。
彼が70年代以降使っていたフォルメル技法では作品の極小と極大が一致するようなフラクタル的なコンセプトがあり、作品の細部の微細な音響、全体の大きな構成の両者を、聴取の際いかに意識できるかが作品を面白く聴くコツだと思いますが、同様に、彼の初期から晩年に至る作風の変遷、逆に終始一貫していた面といった、大きな彼の創作史を、各作品の研究と並行して辿ることが彼の全体像をつかむ上で重要かと思います。
>彼自身は重要な作曲家なのですが、要はリゲティやクセナキス・クラスの水準
シュトックハウゼンとクセナキスの水準を単純に比べるのは難しいですが、シュトックハウゼンとリゲティが同じ水準ということはあり得ないと思います。リゲティもほぼ全作品に関して把握していますが、私にとっては
シュトックハウゼン>>>>>>>>>>>>>リゲティ
です。
シュトックハウゼンが好きになる前には、リゲティをよく勉強していた時期がありますが、シュトックハウゼンの音楽の神髄を知るにつれ、逆にリゲティの底の浅さが見えて来たことはよく記憶に残っています。
同時代、後世の作曲家、他ジャンルの音楽家などへの影響力も合わせて考えると、クセナキス、リゲティよりはるかに重要である事は間違いないのではないでしょうか?
H. Fukudaさん>
どうも初めまして。コメントありがとうございます。
シュトックハウゼンに近い立場の演奏者らのことを浅田氏は「献身的な弟子」、長木氏は「信奉者」などと呼ぶなど、どうしても色眼鏡をつけて見られがちですが、ワーグナーとの比較もよく見受けられます。
もちろんドイツ音楽の歴史の先輩なので関連が全くないことはありませんが、前のコメントに付けた通り、ワーグナーとの音楽的な相似点は表面的なものにしか過ぎませんし、その気になれば他の作曲家と比較して同じようなことを言うこともできるでしょう。
浅田氏は、「ワーグナー→ナチズム」というこれ自体偏見に満ちた図式を「シュトックハウゼン→テロリズム」という荒唐無稽な図式に相似させようとする悪意が見えますが、これなどは、シュトックハウゼンとワーグナーを結びつけて考えることにより、シュトックハウゼンの真の姿を見失う事になる良い例だと思います。
比喩的に論述する事自体はイメージがつかみやすくなる長所がある一方、話を単純化しすぎて本質を見失ったり、誤った方向へ結論が向いてしまう事はよくあることです。
シュトックハウゼンが「木曜日」の初演に対しての多くの批判的な見解について反論している文書(1980年)は、今の状況にも未だに有効です。
そこで彼は、ドイツの批評家が、作品のスピリチュアルな側面や、息子や娘を演奏者としてコラボレートすることばかり批判し、肝心の音楽、演奏についてほとんど言及していない、ことに不満を述べています。
浅田氏の文章はもっとひどく、例えばLICHTに関していえば、作品自体を聴くことすらせず、批判しているのが明らかです。
カーデューによる「帝国主義」云々という(あまりにトホホな)批判をはじめ、シュトックハウゼンは数多くの批判にさらされていて(それが彼の影響力を逆説的に証明しています)、数多くの偏見も植え付けられているのですが、いかにそうした色眼鏡を排除して純粋に音楽だけから批評されるような状況を作っていくかが、今後の課題と言えるでしょう。
「取巻き組み」という表現はWagnerや有名指揮者のバーンスタインについてもよく語られますね。音楽評論家が使うことが多いです。事実それに熱心な人がいるのは事実です。それの全てを肯定して全く批判をしない人たちを言うのでしょう。僕は特に使いませんが、人に言われたときはなるほどと理解はしています。でもシュトックハウゼンはあくまでも現代音楽ですからね。取巻き組みといえるかどうかほど規模は小さいでしょう。
僕は今まで生きていた人に対しては「偉大」という言葉は使いません。そうなるかもしれないし、廃れてしまうかもしれない。確立としては天気予報ぐらいでしょう。シュトックハウゼンの高気圧がやってくるので晴れるでしょうという予測のようなものです。でもここヨーロッパは高気圧が来ても良く雨が振ることも多いので、一概には言えないですね。いずれにしても将来の歴史が判断することでしょう。僕の立場はどんなに「偉大」であったとしても賞賛だけや批判だけの態度は極力避けます。なぜなら自分が間違っているかもしれないからです。
???ですが、ダルムシュタットの受講者や現在の指導的な作曲家たち(Huber,Lachenmann,Schnebel,Ferneyhough,Boulez,Zenderら)の意見を入れると「Licht」以降が???になることが多いですね。
最大の問題は調性回帰でしょう。同様にリズム回帰、ロックンロールなどの電子音響の愛顧も重要な問題として取り上げられますね。この対極する作品の典型としてはノーノの後期の作品が上げられますね。全く正反対の音楽です。
私の場合は、興味があるから聴いたり演奏する、ただそれだけです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕も同じ立場です。ピアノ曲はいろいろなとこでやりましたね。決して彼の曲を否定しているのではないのですが、後期はどうしても好きになれません。それだけです。
僕はシュトックハウゼン=リゲティでしょう。リゲティはシュトックハウゼンぐらい好きですよ。もちろん作品数やいろいろやった技法や行動やシュトックハウゼンの方が遥かに上回るのですが、それを彼の作品の査定の条件に入れてないということです。
オペラの「Licht」は僕も全曲上演すべきオペラとしますが、何しろ160億円かかるそうですから、ほんとに2008年にやるかどうかはわかりませんが、その金額はあの貧しいザクセン州の文化予算よりも多いと思います。もちろん重要な作曲家はシュトックハウゼンのほかにも無数にありますからそれらをさしおいて借金してでもやるべきかどうかは疑問です。ヘンツェは無視しても良いでしょうが、もしそのころBoulezがオペラを完成したら?カーゲルがまた画期的なMusiktheaterを書いたら、グロボカールが、クラムが、ペンデレツキが初期の作風でまたオペラを書いたら、ホリガーが、フーバーがなどなど上げると限がありません。なぜシュトックハウゼンの音楽ばかりが良くて他の作曲家は上演する価値がないほど良くないとも思えませんし、更にB・A・Zimmermannは忘れていいのか?リゲティは?ベリオは?と続きます。上演が作曲に追いつかない:この問題の方が重要だと思われます。
>ダルムシュタットの受講者や現在の指導的な作曲家たちの意見を入れると「Licht」以降が???
例えばMANTRA以降が???だとするとフォルメル技法を評価していないのだな、というのが分かりますが、なぜLICHTと同じ作曲技法を使ったMANTRA、INORI、SIRIUSは???でないのでしょう?
またLICHTも25年間の長い作曲期間の間にかなり作風が変化していますが(もちろん続くKLANGもまた変化しています)、すべて???でしょうか?
そもそも、他の人(指導的な人も含めて)の意見はどうでもいいと思いますが。。。(その人たちの「取り巻き組」でないのであれば)
Kan-noさんが実際にお聴きになって、ご自分の感性でどう感じたか、というのが大事なのではないでしょうか。
もし、私が「日本の指導的な作曲家」近藤譲氏の「取り巻き」であればシュトックハウゼンの「後期」はNOでしょう。でも私は近藤氏のシュトックハウゼンへの批判は的外れだと思っていますし、同時に近藤氏の作品は大好きです。もちろんKan-noさんが例にあげたラッヘンマンやブーレーズなども同様です。
ちなみに2008年にLICHT全曲というのは多分(とうの昔に)ポシャっていると思います。
>最大の問題は調性回帰でしょう。同様にリズム回帰
?????????????????
作品をきちんと聴かれた事がありますか???
譜面をご覧になった事がありますか???
具体的にLICHTの何の作品を聴いてそう思われましたか?
どちらも完全な事実誤認です!!!
>ロックンロールなどの電子音響の愛顧
なぜロックンロール(!)と電子音響が結びつくのかさっぱり分かりません。ロックンロールではギターをアンプには繋ぎますが(笑)
LICHTで電子音楽を多用している事は事実ですが、いずれも彼独自の作風で、こともあろうに「懐かしの(笑)」ロックンロールに聴こえるはずがないことは一聴すれば明らかですし、まさか電子音楽を使ってるから???という荒唐無稽な理由ではないですよね。
まあ「火曜日」第1幕の後半で一瞬ジャズの引用がありますが、そういう話でもないですね。(ルシファーの誘惑の「えさ」として使用されています)
>将来の歴史が判断することでしょう
「歴史」という完全な他者がいるのではなく、Kan-noさんや私、そしてその他多くの人の個人の意見が時間をかけて集約されて「歴史」になっていくことを忘れてはなりません。ですから、まずは私たちが肯定にせよ否定にせよ作品をきちんと聴いた上で批評していく事が重要かと思います。
例えばMANTRA以降が???だとするとフォルメル技法を評価していないのだな、というのが分かりますが、なぜLICHTと同じ作曲技法を使ったMANTRA、INORI、SIRIUSは???でないのでしょう?
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フォルメル技法そのものがまだ作曲界に認められていないですね。モメント・フォルムはもう承認済みですが、未だに作曲家の同僚が理解でしないのかもしれない。それとも完全にシュトックハウゼンの独りよがりかもしれない。彼を無条件の「神」としないで一人の人間として分析しております。
またLICHTも25年間の長い作曲期間の間にかなり作風が変化していますが(もちろん続くKLANGもまた変化しています)、すべて???でしょうか?
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Klangはまだ聴いてないので何ともいえませんが79歳の老人が考え方や作曲技法を突然変えられるとは思えませんので似たような傾向の可能性はあります。
Kan-noさんが実際にお聴きになって、ご自分の感性でどう感じたか、というのが大事なのではないでしょうか。
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もうちろそうですが、自分の意見は他の同僚とほぼ同じですね。
もし、私が「日本の指導的な作曲家」近藤譲氏の「取り巻き」であればシュトックハウゼンの「後期」はNOでしょう。
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彼は日本では指導的作曲家らしいのですが、僕が彼の作品を聞いた限りではまだそうは認められません。この前もFeldmanとどこが違うのかわかりませんでした。
作品をきちんと聴かれた事がありますか???
譜面をご覧になった事がありますか???
具体的にLICHTの何の作品を聴いてそう思われましたか?どちらも完全な事実誤認です!!!
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そりゃもちろんありますよ。彼がないといおうと結果的にそうなんだから道理的に調性・リズムといったほうがわかりやすいですね。Lichtはばらばらに録音してあったのをSWRが数年がかりで全曲ラジオで流しました。もちろん部部的には本人の生の聞いていますが。この数ヶ月前に「日曜日」の全曲放送が終わったのですね。これも放送枠から2週間がかりでしたが。場の途中にはすべてStockhausenの生のインタビューを入れてましたね。日曜日だけで2週間に述べ8時間の放送枠で放送しました。
なぜロックンロール(!)と電子音響が結びつくのかさっぱり分かりません。ロックンロールではギターをアンプには繋ぎますが(笑)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これは本人が数年前ラジオのインタビューで言ったものです。それでなるほどと私たちもそう理解したのです。詳しくは故人にお聞きください。
LICHTで電子音楽を多用している事は事実ですが、いずれも彼独自の作風で、こともあろうに「懐かしの(笑)」ロックンロールに聴こえるはずがないことは一聴すれば明らかですし、まさか電子音楽を使ってるから???という荒唐無稽な理由ではないですよね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
でも最後のダルムシュタットの講義の受講生もそう聞いていましたよ。僕もそう思いました。その後で質問がありましたが、彼はそれを否定してはいませんでした。何しろビートルズと一緒にコンサートやろうとしたぐらいの人ですからね。親近感があるようだし違和感はないように思えます。
まあ「火曜日」第1幕の後半で一瞬ジャズの引用がありますが、そういう話でもないですね。(ルシファーの誘惑の「えさ」として使用されています)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼は若いときジャズのピアノの即興でも食っていたとか?最近のラジオのインタビューにありました。彼はそういうものも上手いのでしょう。
「歴史」という完全な他者がいるのではなく、Kan-noさんや私、そしてその他多くの人の個人の意見が時間をかけて集約されて「歴史」になっていくことを忘れてはなりません。ですから、まずは私たちが肯定にせよ否定にせよ作品をきちんと聴いた上で批評していく事が重要かと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もちろんそうですよ。だからドイツの音楽大学の試験はシュトックハウゼンの作品がどこでも必修なのです。ラッヘンマンところやヴェッツァーのところでもシュトックハウゼンのアナリーゼを散々やらせられましたしね。それから本人のところに行ったのですがそのとおりでした。自分でも何回も公の前でピアノを弾いたり指揮したりもしましたしね。もちろん実演のコンサートは本人立会いも含めて無数に聴きました。楽譜も集めました。写譜も何度もしました。彼の本の「テクステ」も素晴らしいのでドイツ語の写本も何回もしました。しかしながらまだまだ後期の作品はどうしてああなのかがわからないですね。
具体的に何の作品をお聴きになったのか結局分からないので、それ以上の突っ込んだお話ができませんが、調性、リズムということに関して実際のところを説明しておきます。
私はLICHTを全曲聞いていますので、作曲者にわざわざ登場して頂かなくても断言できますが、調性回帰、(古典的な)リズム回帰、というのは「完全な誤り」です。
フォルメル技法もTEXTEに説明があるはずですが、どうもご理解なさってないようなので手短に説明すると、全曲を統一する短いメロディー(フォルメル)の構造(ピッチ、リズムなどすべての要素を含みます)を作品の極小から極大のさまざまな次元に適用する作曲技法です。
ひょっとしたらこのフォルメルのことを「調性、(古典的な)リズム」とお感じになっているのかもしれませんが、このフォルメルの旋律の核になる音は古典的なセリーによって規定されています。
このセリーで使用される音程には長3度や完全4度などの、(調性を想起させるという理由で)かつての無調音楽で忌避されてきた協和音程も使用されていますが、調性感を出すなどの意図は全くなく、単にすべての音程を平等に扱っているだけです。
フォルメル技法の適応の要請上、フォルメルに「中心音」的な役割の音がしばしば設定されていますが、調性音楽の主音の概念とは全く異なります。
メロディーをわざわざ使う理由の一つとして、聴覚上認知しやすくする事で、セリエルで複雑な構造を聴き取りやすくする、という面がありますので
清水穣氏曰く「鼻歌」になるような歌いやすいものでなくては意味がありません。
フォルメルのリズム構造もセリエルに導き出され、そこから細部のリズム構造も規定されますのでリズム的にも古典的にはなりえません。
しばしばテンポの半音階でテンポが変化しますので、記譜上の見た目よりもリズムはずっと複雑です。仮にテンポの半音階を使わずに記譜するとある種ファーニホウ的な楽譜になるでしょう。
一見同じ音価の音が続いていても必ずそこにrit.などのテンポ変化がつけられ不規則性が生じるようになっています。
お聴きになったと思われる「日曜日」のHOCH-ZEITENは終始5つの異なるテンポが同時進行していますが、このことについて何もお感じにならないのは非常に奇妙に感じます。
こうした細部はともかく、もし以前のコメントでおっしゃった通り「LICHT以降」を否定するのであれば、同様の作曲技法でLICHT以前に作曲されたMANTRA、INORI、SIRIUSも否定しなくてはつじつまが合いませんが、これは結局曖昧なままです。
その曖昧性も放置したまま「後期」と乱暴にまとめてしまうのはどんなものかと思います。
ロックンロール云々の話も、具体的にどういう話があったのか分からないので荒唐無稽にしか聞こえません。デジタル・シンセの音色がテクノっぽくてイヤだ、という批判なら、分からないでもありませんが。
「詳しくは故人にお聞きください」という発言はKan-noさんが「現実とあの世の区別」がついてないように思われます(笑)
他にも数え切れないくらい論議すべき点もありますが、具体的な回答を頂けないまま不毛な方向へ決定的に向かいつつありますので、これで本件のコメントを閉じます。