今年の講習会のマスター・クラスでは、昨年に引き続き《私は空を散歩する》を勉強しました。今回のポイントは、この曲の初演者であり、以降シュトックハウゼン監修のもとで10年以上この作品を演奏したHelga Hamm-AlbrechtとKarl O. Barkey両氏(今年の講習会の特別講師として呼ばれていました)の集中的な指導を受けることができたことです。この両氏は他にも《シュティムング》の初演も行っていますし、Helga Hamm-Albrechtは大阪万博での演奏のために日本に長期滞在もしている、シュトックハウゼン演奏の老舗といえる演奏家です。

昨年指導を受けたNicholas Isherwood氏もこの曲に関してシュトックハウゼンの直接の指導を受けているのですが、この両氏に比べると、同曲に関しては演奏経験が極端に違うので、極めて重要な機会になりました。

《私は空を散歩する》は、12の部分のテンポ、ディナーミクを、作曲者によって提示された指定の中から組み合わせ、他にも任意の名前を呼んだり特殊唱法を考えたりと、演奏者に委ねられる部分が多いのですが、その辺りの解釈法がレッスンの重要なポイントになりました。
スコアの指示を文字通り読めば、ルールの範囲内で自由にやっても良いはずなのですが、この両氏の経験では、ルールに従っていてもシュトックハウゼンが気に入らない場合がある、とのことでした。ある特定のフレーズには、シュトックハウゼンの強く思い描いたイメージがあり、それを壊すようなテンポやディナーミクの選択を行ってはいけない、そして逆に、そのイメージを表現するためには若干の自由(つまりルールからの部分的な逸脱)が認められる、ということでした。
レッスンの中心は、こちらが用意したヴァージョンのそうした面での問題点を洗い出し、テンポやディナーミクの若干の変更を施して改善していく作業でした。スコアだけからは絶対にわからない、演劇的なジェスチャーなどについても、シュトックハウゼンがどのような動きを具体的に指示したか、ということに関してアドバイスをもらいました。
この曲は、シュトックハウゼンの全作品の中でもスピリチュアルな側面が特に重要となっていて、彼の描いたイメージを明確に表現することがいかに大切か、ということを何度も繰り返し説明されました。
もっとも、この曲に限らず、シュトックハウゼン作品でいろいろな選択可能性がある作品には、スコアの指示だけからは分からない、微妙な制約があることはよくあります。
おもに、実際に演奏を重ねていく上で生じた問題点を解決する上で、そうしたスコアにない変更が施されることもありますが、作品数があまりに多くて、楽譜の修正が追いつかない問題点もあります。
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《ピアノ曲XI》は当初の、19の断片の演奏順をリアルタイムで決める、というコンセプトが(正確に演奏することが困難なため)却下されて、事前に作成した自分用のヴァージョンを演奏するとか(しかしこれは出版されている楽譜には記載されていません)、《ルフラン》、《ストップ》、《ミクストゥール》に関しては不正確なリアリゼーションに辟易して、自ら、確定された楽譜による新しい版を出版したり、ということがあります。
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この二人もシュトックハウゼンとリハーサルしながら、少しずつヴァージョンを修正し、彼らの間での「ベスト」を何年もかけて作り上げていった、と話していました。
シュトックハウゼン演奏には、テンポやアーティキュレーションを楽譜どおり厳密に演奏しなくてはいけない一方、口伝的要素もかなりあります。この作品はそうした要素がかなり強いので、私たちの世代がそれをきちんと受け継いでいかなくてはならない、とも痛感しました。
この二人の演奏を録画した非公式のDVDも頂き(残念ながら発売予定はないそうです)、よりよい演奏に向けて、改めて精進したいと思います。

講習会の閉会式のあとには、会場として使われた学校の屋上の別々の箇所にのぼった5人のトランペッターが、《木曜日の別れ》を閉会のファンファーレとして演奏しました。
この作品は5つの部分に分けられたミヒャエルのフォーミュラ(の核セリー)を、長い休止を挟みながら、自由なテンポで繰り返し演奏するものです。
夕空のもと、あちこちから聴こえるロングトーンが不意に重なりあう様子はとても神秘的でした。
・今回のお買い物(抄)
CD:
CD92 KLANG14時間目《HAVONA》
Text-CD21 《短波》の大阪万博でのプライベート録音を収録
DVD:
INORI(1998年ダルムシュタットでの演奏)
VORTRAG ÜBER HU(2003年キュルテンでの演奏)
ZEITMASZE(1992年フランクフルトでの作曲者指揮、アンサンブル・モデルンの演奏)
MICHAELION(1998年シュトゥットガルトでの世界初演、以前VHSで出ていたもの)
文献:
Hermann Conen: FORMEL-KOMPOSITION(2009年増補改訂版)
Rudolf Frius: STOCKHAUSEN - DIE WERKE 1950-1977
Karlheinz Stockhausen: TEXTE vol.7-10
スコア:
KONTAKTEリアリゼーション・スコア(Stockhausen-Verlagからの新版)
YLEM
MUSIK IM BAUCH
AMOUR(クラリネット版)
KLANG5時間目《HARMONIEN》(バス・クラリネット版)
KLANG14時間目《HAVONA》
その他:
オルゴール(《ティアクライス》の〈さそり座〉)

シュトックハウゼンのお墓(新しいものに工事中です)


>スコアだけからは絶対にわからない、演劇的なジェスチャーなどについても
スコアに映像資料を付けるというのはどうなのかなと考えたのですが、それでは演奏者の解釈というか個性が入らなくなってしまうので、やはり口伝的な要素が必須なのかもしれませんね。
若かりし頃、友人と「アレアトリーは現代音楽界を混乱させただけではないか」とか「即興はクリシェと手癖の混交物ではないか」とかいう議論をしたことがあります。
今は難しいことを考えるのがしんどいので、虚心に聴くことに専念しようと思っています。
楽譜によっては絵や写真もついていますし、曲によってはやはりヴィデオを見た方が良いものもあります。
ただ、特に70年台の作品では映像資料がないものも多いですし、すべての演奏者のジェスチャーを漏れなく記録するのも困難ですので、やはり直に教わるのが最終的には一番の近道ということになります。
>アレアトリーは現代音楽界を混乱させただけではないか
シュトックハウゼンの演奏者への過度の期待と落胆が、結局自分でお手本ヴァージョンを作るという道を辿った作品もある一方、演奏者の個性やアイデアがうまく演奏に取り入れられた例もあるので、評価は難しいですね。
>即興はクリシェと手癖の混交物ではないか
シュトックハウゼンが60年代にジャズ(フリー・ジャズも含む)などの即興を批判していたのはまさにその点です。
短波ラジオのイベントを変形させたり、超意識が「受信」したものを演奏のもとにしたり(=直観音楽)した、というのは、クリシェから逃れるシュトックハウゼン流の解決法だった訳です。