シュトックハウゼンが《光の水曜日》の作曲の基本構造として用いた4層構造の《光の水曜日のためのSuperformel》そのものを、シンセサイザーのための作品として演奏する、という作品で、主要な3層の音域を置換しながら、このフォルメルが3度繰り返されます。
この作品は、基本的に同一の楽譜(テンポはこちらが2倍速い)による打楽器三重奏版の《水曜日のフォルメル》と兄弟関係にあります。高音域の声部を金属、中音域の声部を木、低音域の声部を皮の打楽器を用いて、演奏者が自由に楽器を選択しなくてはなりませんが、《ピアノ曲XVIII》では、それに対応して、金属、木、皮に似せた電子的な音色をプログラミングすることを求められています。
ピアノ曲XII〜XIVでは、フォルメルに含まれる、様々なノイズ的要素を内部奏法などで解釈していましたが、ここでは、シンセサイザーのプログラミングの変更によって解釈することになり、音色の選択も奏者に完全に委ねられています。
複数の音色を多層的に重ね、さらに各層バラバラのタイミングでその音色も変更しなくてはならず、ポリフォニー内での(ピッチベンド的)グリッサンドや微分音の演奏も求められることから、奏者にシンセサイザーのプログラミングの知識が必要となることはいうまでもありません。
また、この作品での長い持続音の音色の美しさそのものを味わう傾向は、晩年のシュトックハウゼン作品の重要な特徴でもあります。
《ピアノ曲XIX》(2001/03)は《光の日曜日》の終演後、ロビーなどで再生される5台のシンセサイザーによる電子音楽《日曜日の別れ》の別ヴァージョンです。
このヴァージョンでの楽譜はまだ出版されておらず、初演もされていないので詳細は違う部分があるかもしれませんが、作品表での取り上げ方から推察するに、《日曜日の別れ》を一人のシンセ奏者が、残りの4声部を収めたテープと共演する、という演奏形態であると思われます。
《日曜日の別れ》は《光の日曜日》の最終場面である《至高=時 HOCH-ZEITEN》の別ヴァージョンでもあります。この作品はまず5群のコーラスのための版が作られ、合唱団が歌う5ヶ国語の歌詞の言葉の響きを5群のオーケストレーションに「翻訳」する形で、オーケストラのための版が作曲されました。《日曜日の別れ》はコーラス版を5台のシンセで演奏する版ですが、同様にコーラスの歌詞を、シンセサイザーのプログラミングに「翻訳」することが求められます。様々なパターンのグリッサンドで埋め尽くされた楽譜は、当然ながら通常の鍵盤楽器作品とは全く異なる世界を生み出します。
ピアノ曲のXVII〜XIXに共通した特徴は、ピアノ曲としての版と、基本的に同じ楽譜に基づく打楽器のための版が存在することです。
シンセサイザーは機種の選定やプログラミング、打楽器は楽器の選定や奏法によって多種多様な音色を生み出せる、という点で共通していますが、音色のキャラクターは全く異なっているので、両者の版を聴き比べると、非常に興味深い発見があります。
ピアノ曲XIXの打楽器版にあたる《光線 STRAHLEN》(2002)は、ヴィブラフォン奏者とテープ(9パートのヴィブラフォン演奏の多重録音)のために作曲されていますが、エレクトロニクスを使って、本来ただ減衰するだけのヴィブラフォンの音に(連続したピッチ変化による)グリッサンドをかけるという離れ業が聴きどころです。
ちなみに、《LICHT》と関連のある8曲のピアノ曲の内、前半の3曲が伝統的なピアノ、残りの5曲がシンセサイザーと、同じ鍵盤楽器ながら異なる楽器のために作曲されているのには、(恐らく当初からの計画でなかったと思われますが)それなりの根拠があります。伝統的なピアノのために作曲されたXIIからXIVはそれぞれ《木曜日》《土曜日》《月曜日》に含まれる作品ですが、この3つは《LICHT》の3人の主要キャラクターの内の一人が主要な役割を果たし、残りの4作は二人、または三人のキャラクターの様々な関わり合いがテーマとなっているので、それが根拠となっていると思われます。
《LICHT》の次なる連作《KLANG》には鍵盤楽器を使った作品が2つあり、「ピアノ曲」シリーズの続編とも解釈ができます。
1時間目:《昇天 HIMMELFAHRT》(2004/05)は補助的な役割の二人の歌手を伴うものの、実質的にはオルガン、またはシンセ奏者のための作品といえます。2声のポリフォニーというシンプルな構造ながら、30分以上の演奏時間のほとんどで、鍵盤楽器奏者の左右の手は、異なるテンポで演奏しなくてはならない、という超難曲です。24種類の音色を使い分けなくてはならないところは、後期ピアノ曲と相通ずるところがあります。
3時間目:《自然の持続時間 NATÜRLICHE DAUERN》(2005/06)は《ピアノ曲XIV》以来の伝統的なピアノのための独奏曲、しかも、それ自体が24の作品から構成される演奏時間3時間超の大作です。
多彩なシンセサイザーの音色変化を捨て、再び伝統的なピアノの響きを追求したという点も注目すべきポイントでしょう(リンやインディアン・ベルをピアノの音色と融合させる興味深い試みもありますが、そうした例外をのぞいて、内部奏法もほぼ皆無です)。
もっとも特徴的なのが冒頭の数曲に集中的に見られる、長い減衰音です。この減衰の時間を非メトロノーム的な持続として利用していますが、同時に、一見単調な音響現象に隠れた微細かつ豊かな表情に注意深く聴き入ることを、奏者、聴き手ともに求めているのが、晩年のシュトックハウゼンならではです。音楽の大事な部分は鍵盤の上、あるいはピアニストの指ではなく、楽器の内部で起こっています(そのことに気づかなければ、この作品は単なるガマン大会以上のものとはなりません)。
こうした側面は、ピアノ曲X主要部(冒頭のにぎやかな部分は構造的には序奏部にすぎません)の長い減衰音や休止にすでに表れていますが、この作品ではそうした側面が極限まで拡大されたといえます。
最後に、意外に知られていないことかもしれませんが、シュトックハウゼンが作曲を本格的にこころざす前は、ピアノが彼にとってもっとも身近な楽器であったことを付け加えておきましょう。幼少時からピアノの手ほどきを受けていましたが、終戦直後ケルンへとやってきた若きシュトックハウゼンは、レストランやカフェでピアノを弾いたり、手品師アドリオンのパフォーマンスの伴奏として即興演奏をしたりして生計を立てていたのです。













