シュトックハウゼン講習会は毎回充実した内容なのですが、それが故に、予算などの理由などによって開催自体が危ぶまれたりなどといった話もよく聞いたりしますが、今年の講習会ほどはらはらした事はありませんでした。
この講習会の開始以来ずっとピアノのクラスの講師として務めていたエレン・コルヴァーは今回の講習会でアコースティック・ピアノのために作曲された14曲の「ピアノ曲」を数回のコンサートで全曲する予定になっていました。彼女はこの14曲の「ピアノ曲」をシュトックハウゼン監修のもと録音していますから彼女のレパートリーであるといってもいいでしょう。しかし、どの作品も気楽に演奏できるものは一つとしてないですし、VI, X, XIIIなど、一曲での演奏時間が30分前後に及ぶ大作も含まれている訳ですから、ひとつの演奏会のシリーズでこれら全曲をひとりのピアニストが演奏するというのは非常に野心的な企画である訳で、どのような演奏になるのか、多くの人が期待と不安を入り交じらせながら楽しみにしていたのですが、なんと、講習会開始の数日前になって彼女が演奏をキャンセルしたのです。
私がキュルテンについた日にその話を聞いて、その時点ではそのキャンセルの穴をどのように埋めるかという公式な発表はなかったので、多くの人が今回の講習会の行く末を心配していました。
同じ月にザルツブルク音楽祭で行われる予定であったマウリツィオ・ポリーニがシュトックハウゼンのピアノ曲を作曲者の監修によって演奏する、という企画もポリーニの体調不良によりキャンセルになっていましたし、今年のシュトックハウゼンはピアニストに関しては運が悪いのかな、などと余計な事まで考えもしました。
実はエレン・コルヴァーは昨年の講習会での演奏(ピアノ曲XII〜XIV)もキャンセルしています。理由は直前になって背中を痛めて演奏できなくなったということでしたが、演奏の方は優秀な受講生のフランク・グートシュミットが立派な代役を果たし、レッスン自体はエレン・コルヴァーが予定通り受け持ちました。しかし、今年は演奏ができないだけでなく、講習会自体にも参加できない、つまりレッスンもできない、ということで、そうした申し出が講習会の直前にあったためにスタッフたちは大慌てで対処に当たる事になったのです。
予定されていた彼女の演奏会は数回にわたっていましたし、ピアノの受講生も続々キュルテンへやってきていて、レッスンがどうなるのかも分からない状態で多くの人がとても心配していましたが、講習会初日にシュトックハウゼンからこの問題に対する説明がありました。
まず、ピアノのクラスの講師のエレン・コルヴァーは講習会直前になって足を折る大けがをしてしまい、現在も入院しているのでキュルテンに来る事が出来ないので、レッスンも演奏もできない、という現状の説明があり、その穴埋めとして受講生として以前から参加していたベンジャミン・コブラーとフランク・グートシュミットの二人が代役として演奏し、ピアノのクラスのレッスンもこの二人が代わりの講師として指導をする、という発表がありました。ただし、I〜XIVの全曲を二人の優秀なピアニストと言えども、一週間弱で完全に準備をすることはとても難しいので、VI, XII, XIII, XIVの4曲は割愛する事になり、その代わりに2つの電子音楽作品「少年の歌」「コンタクテ」と今年のコンポジション・セミナーのテーマ作品の「Hoch-Zeiten(合唱版)」の5チャンネルの録音を演奏するとのことでした。
シュトックハウゼンはこの決定に関して、「なかなか良い解決方法、そしてこの解決方法は永続的なものになるだろう」といった表現をして、特に後半のフレーズについて彼はそれ以上の具体的な言及はしませんでしたが、その時その場にいた全員が、エレン・コルヴァーは今後この講習会へ来る事はなく、ベンジャミンとフランクの二人が今年からピアノのクラスの新しい講師へ「昇格」すると理解しました。
さて、ベンジャミンはI〜V、VII〜IX、XIの9曲の「ピアノ曲」を演奏しましたが、どれも彼のレパートリーに入っている作品なので、短い準備期間にも関わらず非常に余裕の感じられる演奏を披露しました。特に(去年は受講生として演奏した)XIは音の星のような煌めきが強く印象に残る演奏でした。本人にきちんと確認はしていませんが、おそらく昨年演奏したのと同じヴァージョンだと思います。
フランクはXの一曲のみを演奏しましたが、ご存知の通りこの曲は30分近くの長大な演奏時間を必要とし、クラスターやクラスターのグリッサンドなど体力の必要な奏法を多用し、リズムの記譜法も非常に独特で様々な音楽事象が複雑に入り組んでいるため、この作品を演奏する事は非常に困難ですが、彼は2年前に受講生のコンサートでシュトックハウゼンが驚きを隠せなかったほどの素晴らしい演奏を「暗譜で」披露していることもあり、今回も期待を裏切らない非常に卓越した演奏で、完全にこの複雑極まりない音楽が体に染み込んでいるのがありありと客席に伝わってくるほどでした。
これらのピアノ曲と組み合わせて「少年の歌」と「コンタクテ」という2つの古典的といえる電子音楽の名作が演奏されました。これらの作品は同じプログラムで演奏された「ピアノ曲」と同じ時期(1950年代〜60年代初頭)の、いわゆる「前衛の時代」の作品ですから、プログラムの組み合わせとしてもとてもバランスの良いものでした。
「少年の歌」はなんだかんだといってここ毎年演奏されていますが、やはり何度聴いても聞き飽きる事のないどころか、聴けば聴くほど作品の素晴らしさがどんどん滲み出てくる大傑作である事を再確認しました。
「コンタクテ」も毎年のように演奏されているのですが、私が聞いたのはすべてピアノと打楽器を伴う版での演奏で、電子音楽のみの版を聴くのは今回が初めてでした。この作品はタイトルが示すように電子音と生楽器の音との関わり合いや、電子音が生楽器の音へ、あるいはその反対の方向へと変化していくように聞こえる効果などが作曲上の大きなテーマになっているのですが、その要素を剥ぎ取った電子音楽のみのヴァージョンそれ自体もとても興味深いものでした。この電子音楽は音源としては基本的にパルス波(ブザー風の音色)の発振器だけなのですが、そのパルス波をフィルター処理などを施して複雑に変容する事によりたった一種類の音源から信じがたいほど多彩な音色を生み出しています。電子音のみの版で聴く事によりこれらの音色の多彩さと複雑な倍音構造をじっくりと味わう事が容易になっていますし、ドラの音色をテープで遅回ししたかのような非常にゆっくりとした(そして微細な音色の変化に富んだ)音像の動きからシュッシュッと4つのスピーカーを素早く動き回るホワイト・ノイズ風の音色などの細かい効果まで、存分に楽しむ事が出来ました。
今年のドイツの夏は40度を越える日もあった猛暑でキュルテンもその例外ではなく、冷房のない蒸し暑い部屋で30分以上の長大な電子音楽を聴取するのはかなり大変なものがありましたが、それでもほとんどの聴衆はその熱さにも関わらず作品を集中して聴き続けました。
そして、今年の「コンタクテ」の演奏に対する聴衆の反応はその暑い気候に比例してか、非常に熱狂的なものでした。
シュトックハウゼンが何度もカーテンコールに応じているのですが、拍手は鳴りやむどころかますます大きくなり、さながらロックコンサートのような叫び声や足を鳴らす音もどんどん熱狂的になっていくのです。熱心な聴衆の多いこの講習会のコンサートでもここまでの熱狂はまれで、ついにシュトックハウゼンは聴衆に向かって発言しました。「一日、コンサートのプログラムが比較的短い日があるので、その日のプログラムの最後にもう一度『コンタクテ』を演奏します。」
そこでもう一度熱狂的な拍手が沸き上がり、その日の演奏会は終わりました。
この日の聴衆の異例な盛り上がりに対してある受講生はこう表現していました。「全員まるで子供のように騒いでいた。」
そして、私ももちろん子供のように喜んでいました。