シュトックハウゼン講習会では毎年必ず何曲かのピアノ曲が演奏されますが、今年は特に沢山のピアノ曲が演奏されました。
講師、受講生それぞれによってV, XI, XII, XIII, XIV, XV(オクトフォニーの一部として), XVI, XVIIが演奏されました(XI以降のすべてのピアノ曲を聴いた事になります)。XIIに関してはピアノソロとしてのヴァージョンを二人の演奏で、それに加え「木曜日」のEXAMENのパートとしてのヴァージョンも聴く事が出来ました。XVIはアントニオと彼の生徒による2種類の演奏を聴く事が出来ました。
ここではいくつかの特筆すべき演奏のみに絞って書きたいと思います。
といいつつ、今一つだと思った演奏から。Vを演奏した受講生はそれなりの演奏を聴かせてくれたのですが、演奏の際の体の動きがとても気になりました。あと、譜面を見ながら演奏していましたが、譜めくりの動きなども含めてかなり違和感を感じました。
現代曲の演奏において、譜面を見ながら演奏するのはむしろ当たり前で、後年のシュトックハウゼン作品の多くに指定されているように暗譜必須ではないのですが、ほとんどすべての講師、受講生が暗譜で、しかも曲によってはかなり複雑なジェスチャーを交えながら演奏しているこの講習会の状況の中では譜めくりをしながら演奏する、という状況がやたらと不自然に感じられるのです。シュトックハウゼンの作品のような集中的な聴取を必要とする作品においては下手をすると演奏者のちょっとした動きも音楽として感じられてしまうので、むしろジェスチャーなどの演劇的要素がスコアに指示されていない作品においての演奏時の立ち振る舞いが演奏の印象に大きく作用するのです。
そういう意味ではXIを演奏したベンジャミン・コブラーはそうした面での不満をほとんど感じませんでした。このXIは演奏時の不確定性を追及した作品としてよく知られています。巨大なスコアにいくつかの断片がばらばらに配置されていて、演奏者はその断片を目に留まった順に演奏していくという作品ですが、実際にはその断片の前後関係によってテンポや音域などをその都度変更していかなくてはならないため、近年シュトックハウゼンは、事前に通常の楽譜の形として確定された演奏用のヴァージョンを作っておいてそれを完全にさらって演奏会にかけるようなスタイルを推奨しています。彼もその例にならい、スコアをコピーして切り貼りした自分自身のヴァージョンを使っての演奏を聴かせてくれました。彼も(自分自身で作った)このスコアを譜面台にのせての演奏でしたが、無駄な動きが無いので譜面を見ながら演奏している、という違和感を感じさせる事がありませんでした。
そればかりか、演奏そのものが非常に卓越したものでした。この作品はどうしても構造の不確定さばかりが強調されるきらいがありますが、彼の演奏はこの作品の生み出す音響の美しさやきらびやかさ、しなやかなリズムなどが印象的でこの作品の音楽そのものの卓越した素晴らしさを再発見させてくれるものでした。
XII, XIII, XIVはどれも「光」の一場面として作曲されているものなので、演奏者にはピアノを演奏するだけでなく、特殊奏法なども含む多少の演劇的な素養も必要とされます(特にXIII)が、この講習会においてはこうしたことがもはや当たり前の事になってしまっている感じで、そうした表面的な事ではなく演奏のより本質的な部分で聴衆に評価されるような雰囲気になっています。もちろん「シュトックハウゼンのピアノ曲はXIまで」と思っているような古の世界に生きている人は皆無です。ある種の人にとってはショッキングなイヴェントの多い(ロケット発射とか)XIIIなども、聴衆はその作品の神秘性と、それを見事なまでにぶちこわすなんともお間抜けなギャグ的な要素のギャップの生み出す効果、そして一番肝心な音楽そのものの美しさをよく知っているので、どの人も変な先入観にとらわれず、素直にこの音楽を楽しんでいる事がよく分かります。
XV以降はシンセサイザーの使用を前提としているので「ピアノ曲」と訳するのはもはや不適切ですが、「鍵盤楽器曲」とか「シンセ曲」と訳すのもどうも据わりが悪いのであえて「ピアノ曲」のままで訳させてもらいますが、シンセの音色のプログラミングはもちろん、演奏者の創意が試されるような作曲の仕方がほどこされています。XVでは100種類以上の異なるシンセの音色を考えるだけでなく決められたリズムの枠内で(事前に考えられた)即興演奏をするパートがありますが(これは「オクトフォニー」のところでも述べました)、XVI、XVIIでは演奏者が自分自身のヴァージョンを作る、というところまで演奏者の自由度が増えています。
ただ、これは「何をやってもいい」という作曲上の責任を放棄してしまう類のものではなく、作曲者の意図する音楽を実現するための方法を演奏者が模索しなさい、というコンセプトに近いといえます。
XVIは「金曜日」の実に変態的な電子音楽からの抜粋に演奏者がシンセやピアノ、さらには演奏者自身の声なども使い注釈としての音を付け加えていくという作品ですが、鳴っている電子音のどれかの音とユニゾン、またはオクターヴの関係を保っている必要があります。いってみれば音の「塗り絵」といったところでしょうか。今回、リハーサルでこの作品を演奏した受講生のヴァージョンに対するシュトックハウゼンの注文を通じて分かった事は、このもとの電子音楽にももともと色が付いていて、その色を消さないようにさらに色を塗り重ねなくてはいけない、そしてその2つの色がどちらも識別できなくてはいけない、というスコアに書かれていない言外の希望がある、ということです。
音楽的にいえば、もとの電子音とそこに重ねたシンセなどの音の両方がどちらもクリアに分離して、かつ融合して聞こえなくてはならない、つまりそれを実現するための音色のプログラミング、音量のバランスに細心の注意を払わなくてはならないということです。さらに、その点をクリアーにした上で音楽的におもしろいものにしなくてはいけないのです。午前中のシュトックハウゼンによるリハーサルでいきなりこうした高度な注文をつけられた受講生は、午後の間必死になってヴァージョンを改訂し、夜の本番ではかなりの向上がみられた彼の演奏も、シュトックハウゼン自身がリハーサルを重ねて作り上げた、アントニオの演奏するヴァージョンにはやはり遠く及ばない、というある意味当たり前なことがこの二人の演奏を聴き比べる事によって再確認されました。
それにしても、普通のピアノ作品と比べて演奏者に求められている内容がなんと異なっている事でしょうか?当然、指がどれだけ速く回るか、などといった超絶技巧とは全く違ったものを要求している訳ですが、この作品はもともとポリーニが関係しているあるピアノ・コンクールの本選の課題曲として委嘱されたものです。確信犯なのかどうかは分かりませんが、このあたりの感覚にもいかにもシュトックハウゼンらしいところが見え隠れしていると思います。